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無意味な「死にたい」に負けない

 最近、「メンヘラ」「OD」「鬱」等これらの言葉をネットでもよく見るようになった気がする。「明日からテストで鬱」といった具合に、だいぶ軽くぶっこむ。
使う当人が精神疾患を患わっているかまでは知らないが、そういった関連のワードが馴染みつつある昨今、それだけ我々の日常は常に小さく発狂しているのではないか。
 日常に潜む小さな「死にたい」に負けないための、自分への励ましと心が帰ってこれるためのホームになれるように書いていこうと思う。




我々を蝕むネガティヴ

 昨今、SNSではポジティヴな投稿もあれば、ネガティヴな投稿も一秒間に滝のように発信されている。あるSNS内ではそれぞれ話題別にコミュニティが作られているのだが、ポジティヴコミュニティとネガティヴコミュニティの一時間における話題の発信数は後者の方が多い傾向にある。
 我々はそれだけネガティヴに当てられているというわけだ。もう一つは「承認欲求」というワードもすっかり浸透しているネット社会、他人からの共感を得やすいという点もあるかもしれない。「懸賞で1000円」よりも「転んでひざを擦りむいた」の方が何となく現実感があるだろう。

 上記は一例であるが、喜びの事象は運で招かれるというのが、宗教や文化で根付いている。我々は無病息災や恋愛成就、合格必勝、商売繁盛等様々に祈願しに神社でお参りをする。『人事を尽くして天命を待つ』と昔の言葉があるように、生活をするにあたって運というものが根付いている。
 一方で、不幸な出来事は前世の天罰だとかこの人は過去にこういった嫌なことをしていたからその報いであるとか、何かと因果応報であるといったイメージを持たれる方も多い。そのように比べると、不幸な出来事の方が道筋立てて納得しやすい

 その納得感こそが共感を生むのだ。そしてその共感が承認欲求を満たすものとしてネット上にはびこっていく。 

中には「嫌な気持ちになるのが分かっているけど、元彼のSNSを覗いてしまう」という人もいる。

「嫌な気持ちになるのが分かっている」というのはつまり、ここに運要素はなく、確定条件である。傷つくことが分かって傷つきに行くのは、ある意味目的の成功ともいえる。こうして気軽かつ予想から外れてしまうという「失敗」の恐れもない負の成功体験ができてしまうために、中毒的に見てしまうという倒錯的な行為ができあがるのだ。
 何もこの例のみに限らずこれは起こり得ていると思う。


 ではこのようにして共感を生みやすく、中毒性もある悪魔的なネガティヴに飲まれないためにどう太刀打ちすればよいのだろうか。実際に飲まれそうになった場合を想定して、3段階で書いていく。

気持ちを正しく見れているか

 いつだったか友達の愚痴を聞いたとき、「この人は何をそんなに悲しむのだろう。解決策は見えているじゃない」と思う時があった。それを伝えても「うーん」といった様子で、なあなあに終わった。だが別日に話を深く聞いていくと、当人が悩むことと問題になっている物事は違うものであるかのように思えた。
 彼女の悩みをここで公開するわけにはいかないので、一例を挙げるが、「仕事が上手くいかない」とする。でもその人はどんな資格でも持っていてすごく頭もいい。なぜ悩むのか、関連のことを掘り起こすと実は「上司は誰の仕事ぶりも褒めるけど、私は一度も褒められたことが無い」という不満が大きかったなんてことがある。

 「仕事が上手くいかない」と「上司に認められたい」という不満はまた別ベクトルだろう。こういった気持ちの錯覚に騙されず、自己を見つめるだけでも心は軽くなるはずだ。

 また、別の友人の話を紹介する。彼は恋人と喧嘩した際にお互いに感情論でぶつけ合わないよう、「○○ちゃんは何に対して怒っているの?」と問いかけるそうだ。根本を見つめる姿勢がお互いすごくいい関係だなと思えた。

①自分が問題であると認知しているものにずれがあるか気にかけてみる



自分で地獄を作らない

 さて、最初にも書いたように、我々は常に小さく発狂している。発狂している状態を作るのは何かというと、実は自分自身である。誤解なくきちんと書くと、マイナスな事象をとらえ続けるあまり気持ちが引っ張られてしまい、結果自分で自滅へ向かうということだ。

 最近何かに感謝できたことはあるだろうか?「美味しいごはんを食べた」「大切な人がいる」「走れる足がある」「暖かいお風呂に入れる」感謝できることは悲しみを見つけることよりも多いのに、それがやがて当たり前の日常に溶けてしまう。
 それに比べて悲しみや悩みはその「当たり前の日常」にできたしこりなので、何とか平坦にしたくてやきもきする。(そのやきもきする大きな原因は上記の根本的な問題とズレがあるということも大きく絡む。)こうしてぐるぐると不快な気持ちにとどまり続けて、しまいには「だから私はダメなんだ」「こんなようではいつか呆れられるだろう」「もう僕は死にたい」と本当の苦悩と道逸れながら新たに問題を自分の中で作り、自責しはじめる。

 こうして、問題自体はシンプルなものかもしれないのに自責することで物事を難しく、発狂に導く手立てをしている
 
 なんにせよ、どんな悩みでも死を選ぶのは私は飛躍的すぎると感じる。
 例えば「友人と喧嘩した」だけなのに結果的な思考が「死ぬ」ということはなんだか突拍子もない結論だろう。まったく大げさではあるが、自責することはそれだけマイナス事象にブーストをかける力があるということだ。
 反省と自責は性質が違う。「もう死にたい」とまで考えるのはもはや自虐の域に入っているのだと考えを切り離し、物事を冷静に俯瞰しながら見つめるよう意識することがポイントだ。
 
②自責の感情に振り回されず、物事を俯瞰して見る。



苦痛に拘束されないために

 苦痛を感じる場合ほど、自分の心を何か別の場所へ避難させることが重要であると思う。 繰り返すが、苦痛というのは「同じ物事をとらえ続けること」からはじまる。その状態は心は一つの事象に拘束され不自由な状態にあると言っていい。「感動」とは何かの物事に強く心を動かされるという意味なのはご存じの通り、カチカチに固まった心のままでは小さな幸せには気づけないだろう。

 心の避難所として一番有効なのは、とにかく自分の夢中になれる趣味や好きな物を作るということ。夢中になっている状態というのは、ほかに雑念が入らないピュアな心のままではないだろうか。
 見つけられず難しいときは、自分が嬉しい楽しい明るい気持ちになれたことを強く思い出すこと。写真などをアルバムにまとめて振りかえって見れるようにするのが有効だろう。
 
 自分を見失わない場所を持つというのは、単純なようで非常に心強いものになる。

③まっさらな気持ちに戻れる心の避難所をもつ


 以上3つが私の考えた対策である。

①自分が問題であると認知しているものにずれがあるか気にかけてみる
②自責の感情に振り回されず、物事を俯瞰して見る。
③まっさらな気持ちに戻れる心の避難所をもつ

 自分を見失わずに自分の軸を持ち続けることは難しいが、意識することは難しいことではないだろう。意識し続けることができたら、自分の習慣として馴染み、やがてそれそのものになれると私は信じている。
 誰かの参考になれたら幸いである。

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