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何が聖域を追い詰めたのか~ひどくなるポピュリズムと「専門知」の軋轢


トランプ大統領に限らず日本でも学術会議のメンバー選定の問題が起きるなど、専門家集団や専門知を敵視する傾向が強まっている。

これに関連して、神里達博という科学史の研究家が先月の新聞コラムで、ポピュリズム、反エリート主義、デモクラシーとリベラルデモクラシー、といった視点からその原因を探っているのが目についた。

それによるとポピュリズムにはいまだにコレといった定義がなく、専門家の認識がなんとか一致しているのは「反エリート主義の立場から人々に直接訴えるもの」ということだけ。

それだとポピュリズムは民主主義の延長線上にあることになるが、だったらどうしてポピュリズムが民主主義を脅かすなどという論が生まれるのか。

ここで神里氏は、ポピュリズムが批判しているのは実は普通の民主主義ではなくて、成熟した西側先進国に特有の「リベラル・デモクラシー」というものであることを指摘。

リベラル・デモクラシーというのは、多数派の支配に加えて表現の自由や少数意見の尊重といった基本的人権を尊重し、しかもそれを守るための社会的な資源があるという前提に立った政体、ということらしい。

そうした政体がグローバル化や新自由主義(いわゆるネオリベ)の拡大でうまく機能しなくなり、結果として中間層の格差を広げ労働者の生活レベルを下げてしまった。そのために、生活に余裕がなくなった彼らは贅沢してふんぞりかえっているようにも見えるエリートや専門家を敵視する。

ポピュリズムは彼らの不満や憤りをうまく掬い取って肥大してきたのだと、おおざっぱにいえばコラムはそういっている。

それは確かにそうなのだが、ここでは彼らの不満や憤りが形を成して噴出してきたことについて、根底にまた別の大きな要素があることを指摘しておきたい。

それは何か。

端折っていうと、専門家集団や専門知の奥の院にある実態に光を当てて、結果的にその権威を引きずり下ろしてしまうような新たな装置。それができてしまったということだ。

これを通じて聖域は白日の下にさらけ出され、権威が権威として機能しなくなった。

聖域の扉を開いたのはいうまでもなく情報通信革命。つまりデジタル化やIT化で、さらに詰めていうなら世界のグーグル化である。

グーグルが世界中のあらゆる情報と知を一手に集めようとしているのは、よく知られたところである。

それによって、人は誰でも、専門家に限らず会社員でも労働者でも主婦でも学生でもダイレクトに手軽に、多くの専門知にアクセスすることが可能になった。

その結果、専門家集団が備蓄してきた専門知の缶詰めがこじ開けられて、その研究成果を誰でも享受できるようになった。

こうして一般化してしまうと今までの威厳や権威は薄められ、聖域が聖域でなくなるのは人間界における他の現象とまったく同じである。

闇の扉がこじ開けられたら、中身が見えて、買いかぶっていたものとそうでないものとの違いも見えるようになる。

余談だが、日本学術会議の問題はこのレベルの話ではない。候補者の一部を任命しなかったことについての理由が明かされてないところからみても、もっと幼稚な、要するにこれを最終的に任命する側の政治家の好き嫌いの問題でしかないように思われる。

IT化・グーグル化によって扉がこじ開けられ中身が見えるようになったら、既得権益にぶらさがって可も否もないありきたりの仕事をしていた一部の専門家および専門知は、そういうものに縁のなかったごく普通の人達の目にも、SNSなどネット上のさまざまな(玉石混淆の)言論を通して価値のないものだと映ってしまうかもしれない。

そのあおりで、次には専門家集団や専門知の全体が軽視され贅沢視されるようになってきたと、現状はそういうことではないのだろうか。

もちろんこれは学術系専門家集団の問題に限らない。政治家も経営者も芸術家や芸能人も、あらゆる分野で権威の衣が剥がされつつある。

こうして、人々が夢みて追いかけてきたような完全無欠のカリスマやフィクサーやスターというものがいなくなってしまった。

となると、はたして……。

これまで人々が追いかけてきた世俗的な夢や希望や目標が消えてしまうということになるのだから、いいのか悪いのかわからないが、もはやあらゆる領域でデジタル化やグーグル化が進展しつつあるので、この流れは今後も続くし、誰にも押し戻せないだろう。

善意に解釈するなら、あるいはこの流れの先に夢や希望を見いだそうとするなら、どの領域でもどの分野でも、これからは本物や必要なものだけが生き残るよ、ということになると思うが、空想だろうか。

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