波が従きくる
写実や発見の歌に対して「よく見ている」と評したりするけれど、この歌は「ぼーっと見ている」歌だと思う。
海に入れば濡れるのは当たり前なのに、わざわざ「濡れながら」と始まるところとか、nurenagaraの音のまったりした感じ。
水着の色とか、表情とか、「友」の見た目はいくらでも描けるはずなのに、「長身」という大摑みな表現をしているところ(もしかしたら逆光でそのシルエットしか見えないのかもしれない)。
こうした表現に、睡魔に襲われているときに周りの音が遠く聴こえるような感覚や、ピントがぼんやりずれた映像を思う。
浜辺から見るともなく見ている目は、なんとなく波のようすを捉えている。「友の後ろに波が従きくる」はすごく冴えている比喩。しかしそもそも比喩というものは「ここ」から意識が遠くなるときに生じるものなんだよなあ。
波なんかを見ていると、きっと、もっと離れていくだろう。
「なにぼ~っとしてんのよ」なんて言いながら、友だちは隣に寝転がる。
かき氷でも買いに行く? お腹へったからたこ焼きかな。
左右社刊のアンソロジー『海のうた』収録のこちらの歌も構図が似ている。川野さんにはぼーっとした歌は一首もないですが。
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