「北洋」という職場
【前回までのあらすじ】
自分の創作活動に何かが足りないと感じていた北山。たまたま読んだスルメイカ加工を題材にした明美智子さんの歌に、「海」になにか運命的なものがあると閃いて函館の旅に出るのであった。
*
「函館市北洋資料館」は五稜郭タワーのすぐ横、函館美術館の隣にある。函館には7、8回来ているけれど、こんな施設があるとは。北洋漁業についても、今回ひょんなことから興味を持つまで、わたしはほとんど知らなかった。知ってますか?北洋漁業。
日本は江戸時代あたりから樺太沿岸で漁をしていたらしいのだけど、日露戦争のあとに漁業協定を結んでから、カムチャツカ半島沿岸とか、もっと北のベーリング海なんかでの漁がさらに本格化していった。獲っていたのは鮭やタラバガニやスケソウダラ。母船式サケマス漁業というのが特に有名で、缶詰を作ったり塩蔵する設備などをもつ「母船」というでっかい船を中心に、補助母船、運搬船、給油船、そして実際に漁をする数十隻の「独航船(どっこうせん)」によって編成された船団で行われた。小林多喜二の『蟹工船』は戦前の話だけど、これも北洋漁業の話で、母船にあたる「工船」の船内が舞台。
戦争のあいだ中断していた北洋漁業は戦後また息を吹き返して、基地となった函館はすごく活気があったらしい。ここからちょっと難しいのだけど1973年にアメリカとソ連が「200海里水域」を実施して、日本が自由に魚を獲れる範囲がとても狭くなったり、漁業権の交渉とか入漁料とかの問題で北洋での操業はどんどん厳しくなり、ついに昭和63年の出漁を最後に終焉を迎えた。検索すると道内のテレビ局が作成した「北洋サケ・マス漁の母船式船団が最後の出漁」というニュース映像が出てくる。北海道にとってとても大きな出来事だったのだ。
前置きが長くなったけど、北洋資料館はとても面白かった。
まず入ったところに流れているビデオ。冗談でしょというくらいに荒れた波をかぶりまくる漁船、そしてこれまた冗談でしょというくらいに獲れる大量の魚。それを追って船に上がってきちゃうトド。「あらまあ!トドが船にあがってきましたよ」とナレーションをつけるのは若かりし頃の大竹しのぶ。そのトドは漁師さんにデッキブラシで突っつかれて海に戻っていった。漁師さんたちの真っ赤な頬が印象に残っている。
展示は模型や資料が豊富で、北洋漁業というものがどのような仕組みで行われていたのか、どれくらい過酷だったのかがよくわかる。
写真を撮ったと思ったら撮れていなくて、どこの船で使っていたのかうろ覚えなのだけど、船内では切っ先が尖っていない、中華包丁のような包丁を使用していた。人を刺せないようになっているらしい。船に乗ったら数か月、男ばかりで過ごすんですからねえ……となぜか警備員のおじさんが説明してくれた。
その警備員のおじさんが「よかったら船に乗ってみませんか」と言うのでついて行くと、なんと北洋の海を体感できるアトラクションがあり、もちろん乗る。
ブースの扉が閉まると部屋が暗くなり、目の前には函館港の映像が。
「さあみなさん、これから独航船に乗って北洋の海に出発です!」
これはたぶん大竹しのぶのナレーションではないと思うけど、この時点ですでにブースが左右に揺さぶられているのであまりちゃんと聴くことができない。船はさらに「低気圧の墓場」の異名を持つベーリング海へ。揺れはますますひどくなる。一人で「ひ~~!」と言いながら手すりに必死につかまっているうちに嵐は過ぎ、北洋の旅は終了した。
「やっぱり北洋に出るのは男性ばかりなんですよね」と警備員さんに聞くと「一人だけ、お医者さんで女性の方が行ったことがあるらしいですよ」と言うので後で調べてみると、田村京子さんという方が『北洋船団 女ドクター航海記』というエッセイを出版されていた。こちらは昭和60年の母船での業務なので、独航船の過酷さに比べたら遥かに優雅。医務室に運ばれてくる人たちが「鮭の頭突き」をお尻に受けて怪我した人だったり、独航船の環境や人間関係に疲弊して胃を痛めてしまった人だったり、北洋の労働環境がよくわかる内容でとても興味深かった。
過酷で危険な仕事でも、数か月を耐えれば、公務員の月給の何倍もの金を手に入れることができる。
「北洋」は夢のある職場だっただろうか。
「北洋」に出た男たちに、「北洋」以外の選択肢はあっただろうか。
女性が独航船のような過酷な現場で働くことは可能だろうか。
少なくとも、北洋漁業の時代では無理だった。ジェンダーとか言ってる場合ではない、圧倒的な力と身体と忍耐と、「稼ぐ理由」が必要だった。資料館の展示は強い説得力をもってそれを物語っている。
でも、女性の身体にそれらが備わっていたら?
『アイスランド 海の女の人類学』(マーガレット・ウィルソン)によれば、1700年代から、北極圏に近いアイスランドの海でも女性漁師が活躍していた。彼女たちは男にも負けないほど屈強で、リーダーシップがあり、聡明だったそうだ。現在、三重県には女性だけの漁師チームもいて、女性でも曳きやすい細めの網を使うなど、工夫を凝らして仕事をしているという。
北洋で働く女を見たい――。
男性の漁師たちの写真……、はにかんだような、おどけるような笑顔を見ながら、そんなことを考えていた。
ところで、資料館の最後にはある女たちの写真が並んでいた。
スルメイカを割く女たちだ。
説明によれば、いずれも昭和30年頃の函館の海のそばで撮られたもの。
おんぶ紐で赤ん坊をおんぶしながらイカをさばいている女性。その横にもう一人、二歳くらいの子どもの姿も見える。
浜に女性たちが大集合してせっせと作業している写真。手前にほっかむりをしたお婆さんが立って何かを指示するように右手を伸ばしている。
ひらいたイカを木の枠に並べて干す「イカぶすま」の横でかがんで何かしている女性。
前回書いた明さんが函館にやってくるのよりも15年ほど前の写真だが、「出面さん」たちに繋がるものを見ることができた。
わたしは非常に満ち足りた気持ちで資料館を後にした。
*
帰宅してからなんと北洋漁業に出ていた漁師さんが歌集を出したという新聞記事を目にして慌てて歌集を取り寄せたのだけど、もう長くなってしまったのでその話はまた後日。