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不登校から #想像していなかった未来 飛び級で博士号を取り大学教員へ

私は現在、広島大学で特任助教として学生たちの起業支援に従事しています。また、子供向けのプログラミングスクール「TechChance!」を運営しております。しかし、中学生の頃は不登校であり、数千万円の借金を抱えながら新聞配達をしていた時期もありました。
自己紹介も兼ねて、私の半生をご紹介いたします。

拙著

不登校で期末試験0点の中学時代

私は中高一貫校の進学校の中学に通っていました。当時は随一の落ちこぼれでした。学校に出席する際も、昼休み後の5、6限目だけ授業を受けて帰宅することが多く、疲れると保健室で眠るなど、自由気ままに過ごしていました。期末試験の数学では全問に答案を書き込んだものの、結果は0点でした。

その頃、私はネットゲーム「REDSTONE」というMMORPG(多数の人が参加するオンラインゲーム)に没頭しており、学校の同級生とのテレビやスポーツ選手の話よりも、オンラインゲーム内の社会人たちとのチャットの方が刺激的で楽しく、私の居場所となっていました。あまりにゲームに夢中になりすぎて、お風呂に入る際にもノートパソコンを持ち込むほどでした。父親がこれを見かねてインターネットを切断した際には、普段は温厚な父と殴り合いになる大きな喧嘩になることもありました。

教師から嫌われる高校時代

中高一貫校であるため、成績が振るわなくても高校に進学は可能でした。
しかし教師からは当然嫌われていました。廊下の先から怒鳴られ、個室で椅子を投げられたり、クラス全員の前で立たされて「お前はこの学校に必要ない」と言われたりしました。もちろん、これは私自身が学校の仕組みに適応できなかったためです。
当時「ニーチェ」の言葉が好きで、「先生と呼ばれ続けた人間は心が歪む」といった趣旨の言葉を信じており、心の拠り所にしていました。

高校3年生のとき、担任教師から「学年で一番お前が卒業できるか危うい」と言われ、親と共にあと何回休めるかを計算して、何とか卒業を果たしました。
しかし、無事に高校を卒業できた安心もあり、高校3年時はどの大学も受験せずに無職になりました。散髪屋で職業を尋ねられ「無職」と答えた際の美容師の驚いた表情が今でも忘れられません。

黒歴史を量産した浪人時代

高校を卒業後、私はとにかく好きなことに没頭しようと決意しました。その結果、再びネットゲームにハマったり、小説を書いたり、2ちゃんねるでレスバを繰り広げたり、ニコニコ動画に「歌ってみた」動画をアップロードしたりと、デジタル世界に多くの黒歴史を積み重ねる日々を過ごしていました。しかし、次第に楽しさを感じられなくなり、自分だけが社会から取り残されているような漠然とした不安を感じるようになりました。

このような状況を打破するため、大学受験を決意しました。ゲームが好きだったこと、そして広島に住んでいたことから、広島大学工学部2類(情報工学)を受験することにしました。

受験当日はバスで熟睡してしまい、運転手の方に起こしていただきました。その結果、遅刻しましたが、無事に試験を受けることができました。あのとき起こしてくださった運転手の方には、心から感謝しています。
そして、幸運にも広島大学に入学できました。

プログラミングにハマった大学生

大学に入学してから、プログラミングとの出会いが私の人生を一変させました。それまで、ゲームの背後に作り手が存在することを意識していませんでした。複雑なゲームの裏側が、実は英数字のプログラムで構成されていることを知り、衝撃を受けました。

例えば、3Dキャラクターを表示するプログラムでは、以下が使用されます。

gameObject.SetActive(true);

ゲームの裏側ではこのような文字列が大量に動いているのです。このような一行のプログラムのミスでロケットの発射が失敗した大事故も報告されています。私は世界の裏側をプログラムが管理していることに興奮しました。

しかし、大学のプログラミングの授業はほとんどが計算問題で退屈であったため、独学でプログラミングを学ぶことに決めました。最初に作成したのはJavaScriptを使用した脱出ゲームです。素人が作った未熟なゲームでしたが、Google Play(iPhoneで言うAppStore)にリリースしたところ、2000人以上の方々にプレイしていただきました。ほとんどは酷評でしたが、「面白かったから続編をよろしく!」という応援の声も頂き、大変嬉しく思いました。

当時、ゲーム開発に関する書籍は少なく、国内の本を全て読み、洋書も電子辞書を片手に取り組みました。英語力は乏しかったものの、プログラム自体が英語で記述されているため、解説が完全に理解できなくてもコードを読めば内容を把握することができました。その結果、大学在学中に40以上のアプリを開発し、40以上の賞を受賞できました。

大学を辞める決意

プログラミングには大変魅力を感じていましたが、大学の授業自体は私に合っていないと感じていました。例えば、教授から期末試験中に「帰れ!」と怒鳴られたり、英語教師から「Kill you!」と言われて机を叩かれるなど、教師との相性が非常に悪かったのです。もちろん、怒られるには理由があるものの、私は自分が非合理だと感じることには従いたくない性質であり、そのために衝突が避けられませんでした。

具体的には、「帰れ」と言われた授業では、期末試験が講義室の掃除だったため、その内容が非常に意味不明であったことが原因でした。
一番理解できなかったのは人類学の試験で、サル語が試験にでたことです。
サルの言葉で、これをなんと書くか、逆にこのサル語を日本語に訳せという問題が期末試験ででました。しかし、それは単に実験中にサルに覚えさせた言葉であって、その言葉が通じるのは世界で3匹の既に他界したサルです。そんなことを覚えて何になるのかと心から不思議に思いました。

大学生活に対する不満が募り、早急に退学する決意を固めました。

出版社の怒りから起業

退学するにしても生きていくために職業が必要でした。
そこで小説家になることを志し、小説コンテストに積極的に応募し始めました。小説を読むことも書くことも大好きで、人と深く関わらずに生きていけると感じていたからです。
「星新一賞」(短編SF小説)の最終候補にまで進出しましたが、他の応募は一次審査ですべて落選。そんな折、一社から私の小説を出版したいという連絡がありました。私は大いに喜び、自由に生きられる夢を抱きました。

しかし、少し不安もありました。電話で編集者に「好きな作家は誰ですか?」と尋ねられ、「フィリップ・K・ディック」や「ジェフェリー・ディーバー」の名前を挙げたところ、「知らない」と言われたのです。編集者が著名作家を知らないことに疑問を感じました。
編集者との会話の中で有名作家が高級車を乗り回しているといった話をされ、契約書が届くのをワクワクしながら待っていました。
しかし、実際に届いたのは120万円の請求書でした。

一般的に、本屋で販売されている書籍は商業出版であり、著者が費用を負担することはありません。しかし、私の場合は自費出版の話だったのです。電話ではその詳細が一切説明されず、突然の請求書に驚きとショックを受けました。編集者に「今、2万円しか持っていません」とメールを送りましたが、返事はきませんでした。検索すると、同様の被害に遭った人々も多いことが分かりました。もし最初からそのように説明されていれば、ただ拒否するだけだったでしょう。しかし、商業出版のような夢を見せかけて急に請求書を送るのは不誠実だと感じました。

そこで、当時普及し始めた電子書籍を活用し、商業出版が難しい作家でも無料で出版できる仕組みを作るべきだと考えました。作家が誇りを持てるような信頼できる出版元としてのプラットフォームを提供することが、私の起業のきっかけとなりました。

コンテストで資金調達

株式会社を設立するためには、約24万円の初期費用が必要であることが判明しました。そこで、広島大学が主催する「ドリームチャレンジ賞」という学生の夢を支援するコンテストと、「キャンパスベンチャーグランプリ」というビジネスコンテストに応募しました。幸運にも両方のコンテストで受賞し、必要な資金を確保することができました。これにより、念願の出版社を立ち上げることができました。

株式会社を創業したその日、私は漠然とした不安を感じ、眠れない夜を過ごしました。周囲には起業経験者がおらず、ビジネスに関する知識もほとんど持っていなかったためです。しかし、すぐに株式会社の法務や税務に関する書籍を手に取り、学び始めることで少しずつ安心感を取り戻すことができました。この経験を通じて、起業が怖いと感じるのは「知らないこと」への不安であることを実感しました。

大失敗した出版社

設立した出版社は、期待に反して大失敗に終わりました。実際に本を出版しましたが、全く売れずに終わったのです。私たちは作家(ユーザー)の課題を解決することには成功しましたが、実際にお金を払う側である読者(顧客)のニーズを満たすことができませんでした。

ちなみに、当時Amazonには社長に直接連絡できるフォームがあり、そこに自分のビジネス案を送ったところ、「やってもいいよ」という返事が来たことが嬉しかった記憶があります。また、スタンフォード大学にもビジネス案を送るなど、よくわからない行動力を発揮していましたが、残念ながら返事は来ませんでした。

アプリ開発会社を立ち上げる

出版社の失敗を教訓に、顧客の課題を解決する事業を模索することにしました。そこで、当時趣味で作っていたアプリを販売する会社に業務を転換しました。
将棋にハマっていた私は、将棋の学習アプリを開発しました。このアプリが思いがけず大ヒットし、Google Playの全国ランキングで4位にまで上昇しました。1位と2位は誰もが知るスクエアエニックスが占めており、社員数千人の大手企業のアプリと、大学生が一週間で作った私のアプリが並び立つことに大きな興奮を覚えました。

毎日お金が入ってくるようになり、その額が増えるにつれて次第に恐怖を感じ始めました。私は「お金を稼ぐことは悪いこと」という考えを持っていたため、収益が増えることに対して罪悪感を抱くようになりました。最終的には血迷ってアプリの公開を停止してしまいました。

「個人でも大企業と戦える」
この経験を通じて、プログラミングは自己実現のための最強の武器であるという確信を持つようになりました。そこで、プログラミングの魅力をもっと広めるための活動を始めることを決意しました。

子供向けプログラミンスクールを立ち上げる

その一つが子供向けのプログラミングスクールです。当時、広島には本格的なプログラミングを学べる施設がほとんど存在していませんでした。大学の先輩がプログラミングスクールの設立を検討しているという話を聞き、共に立ち上げることになりました。そこからの2年間、無給でスクールの発展に尽力し、私自身もクラスを担当して授業を行いました。その結果、担当した高校生が大学生向けコンテストで受賞するなど、プログラミングに年齢は関係ないことを実感しました。

プログラミングの本を書く

プログラミングスクールではどうしても物理的に広げる範囲が限られます。そこで電子書籍を書くことにしました。わたしが独学でどのようにプログラミングをマスターしたかを紹介する本です。
当時大学院で学習工学研究室という、いかに学びを効率化するか、という研究をしていたため、その知見を交えてプログラミングの勉強法を書いたのです。
これがヒットし、Amazonベストセラー3部門で一位を獲得、月商100万円を達成しました。出版社に応募したところ、遂に念願の商業出版を実現でき、現在では3刷され多くの人にプログラミングの魅力を伝える事ができました。

飛び級で博士号を獲得

プログラミングが得意であれば、情報工学の研究において非常に有利な立場に立つことができます。研究では仮説を立て、ソフトウェアを開発し、実験を行う必要があります。特にソフトウェア開発には通常数ヶ月から半年ほどの時間がかかります。しかし、私は実験用のソフトウェアを一週間ほどで作成することができたため、論文の執筆を迅速に進めることができました。その結果、修士課程と博士課程をどちらも早期に修了し、博士号(工学)を取得することができました。実際には准教授と対立していたため、先方がわたしを早く研究室から追い出したかったということも追い風でした。
また、卒業式では代表として挨拶を依頼されるなど(根暗のため断りましたが)、学内でも評価いただき奨学金も全額免除になりました。

大学教員へ

その後、学生に起業を指導する教員として、スタートアップ推進部門で働くことになりました。ただし順風満帆とは行かず、事業の失敗や借金、東京での新聞配達、さらには警察沙汰といった困難にも直面しましたが、長くなるため省略いたします。

過去は今の自分が決める

私が大切にしている考え方の一つに、「過去の良し悪しは今の自分が決める」というものがあります。

一般的に「不登校」という言葉は否定的に捉えられ、解決すべき問題として語られることが多いです。実際に当時の私は、なぜ普通に学校に通えないのかと自問自答し、その経験を最悪の出来事と感じていました。

しかし今振り返ると、不登校だったことは最高の経験だったと感じています。なぜなら学校に馴染めなかったおかげで、獣道のような自分の道を歩むことができたと思うからです。

このように、「不登校」という事実だけでその良し悪しを判断することはできません。過去の出来事は、今の自分の捉え方次第で、最悪にも最高にも解釈できるのです。裏を返せば、過去の経験が今の自分を縛ることは全くありません。
だからこそ、過去のあなたを元にせず、#想像していなかった未来に向けて新たな挑戦をすることが大切です。

あなたは今から、何でもできるのです。

拙著

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