【おやじの戯言】どしっと構える
note を始めて困ったことに気づいた。自分が年齢的にどこに属するのかわからないのだ。
40代の俺は若者ではないことは確かだ。ではおっさんなのか?と言われればうーん、違う気がする。間違いなくおじさんでもない。
じゃあおやじなのか?俺には中学生の息子がいる。俺が中学や高校の時は、友達に父親の事を「オヤジ」と呼んでいた。なら俺もすでにおやじなのかもしれない。感覚的にはあと10歳は歳上の人のイメージだが。
俺とか僕とか私とか、一人称も難しい。英語の“I”みたいに、一つにまとめりゃいいのに。女性はワタシだけなんだろうか。いまさらアタイなんて言う女性はもはやいないのだろう。そー言えば、僕って言ってる女性がテレビに映っていた。今は、人種や性別だけでなく言葉も自由な世の中だ。同じ生き物だもの。
そんな“おやじ”化した俺だが、残念ながら今だに立派な座右の銘や人生の教訓なんてものは思い浮かばない。
それでも感覚的に目指すべき心意気というか姿があって。言葉にするなら「どしっと構える」ってやつだ。すっと聳え立つ木のように。
どしっと構えるっていうと、何にも動じないような、びくともしないような。胡座をかいて、腕組みして、仁王像のような男。そんなイメージをするかもしれない。
でも最近ふと違うイメージが湧いてきて。めっちゃ立派な木だって、よく見たら幹には穴が空き、樹皮は剥がれ落ち、枝は折れ、虫食いもあるかもしれない。それでも遠目から見たら一本すっと天を目指してそこに立っている。しっかりと光を浴びるために枝を伸ばして。そんな姿がどしっと見えるわけだ。
どしっと構えるってことは、動じないことでも傷つかないことでもなくて。傷ついても、動揺しても、何があっても、自分の生を生き切ること。それしかできないから。ならどうどうとそうすればいい。傷だらけでも、なんとか手を広げて英気をかき集め(元気玉だな)、高さや大きさを周りと比較せず、とにかく自分という木をしっかり育てる。立てる。天高く。
そー考えると、ほとんどの人は、自分ができるカタチでどしっと構えて立派に生きているんだな。だから大丈夫です。自分も。悪いことをしている人以外。全人類。堂々と天高く生きていきましょう。
ノンアル片手のおやじの戯言だけどね。
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