ボトルキープ
アリスが酒棚のボトルを一本一本丁寧に拭いていると、入口のベルが来客を知らせた。扉の内側に貧相な男が立っていた。
男は作業着のほこりを払い、伺うような目つきをしながら4つしかないカウンター席の一つに落ち着いた。そして棚のあまり多くないウィスキーボトルをひとあたり眺めて『グレンファークラス105』をロックで注文した。『グレンファークラス105』はアルコール度数が60%もある強いウィスキーだが口当たりはとてもよい。
「ごめんなさい。空みたい」
本来、空瓶など棚におくべきではないのだが、男は満足気に頷いてから同じ銘柄を電子ウィスキーに切り替えて注文し直した。そしてサッチだと名乗った。
「実はお願いがあるんだ」
アリスは天を仰いだ。
ここはゴミ処理島のドリームシティ。アンドロイドのアリスが営む小さな酒場。アリスはここで慎ましやかに暮らしている。しかし厄介事の方はアリスを見逃してはくれないようだ。「お願い」というのは大抵「厄介事」と同じ意味だ。
「私はただのバーテンダーよ。お願いをするなら街の顔役であるオーキーのところへ行ってみたらいかがかしら」
サッチはショックを受けた顔を見せたがすぐに、
「そうですよね」
と言って下を向いた。
それからサッチは立て続けに何杯かの電子ウィスキーを煽るように呑んだ。そして瞼が半分落ち始めたころ、ぽつりぽつりと身の上を語り出した。
サッチはイギリスの出身でハイレイヤーに属する家に生まれた。生まれてからずっとハイレイヤーという身分制度の中で暮らしていたが、ひょんなことからローレイヤーやアンダーグラウンドレイヤーにも多くの人が属して暮らしていることを知った。直接目にすることができないレイヤーの人々。それはいわば別次元の人々であるが、その人々がいるからハイレイヤーが存在しうること。その事実に疑問を持った。すると自分自身の属性や存在にも疑問を持ち始めた。自分に疑問を持った人間が転落するのは簡単だ。流れ流れて気がつけばレイヤーすら存在しない政府管轄外のゴミ処理島に流れ着いていた。
「ここは安心できる。自分が何者かを気にしなくていいんです」
「ならよかったじゃないですか。もう一杯いかが?」
サッチがグラスを突き出す。すぐにグラスがウィスキーで満たされた。
「ところがです。またぞろ不安が頭をもたげて来たんです」
アリスが先を即す。
「僕らはMシティから出るゴミを分解して元素再生している。その元素はまたMシティに戻されて何かの機械になる。それは執事アンドロイドになるかもしれないし、レイヤ構成を維持するサーバになるかもしれない。つまり僕はまたしてもハイレイヤーの連中に手を貸しているかもしれないということです」
「考えすぎるのはよくないわ。さあウィスキーでも飲んで忘れなさい」
サッチはウィスキーを一気に煽るとカウンターに突っ伏した。
「もう死んでしまいたい」
カウンターで寝息を立てていたサッチが目覚めたのは閉店間際だった。サッチは目の前に置かれた水を飲んで一息つきアリスを見上げるように見た。酔い潰れたことを恥じているようだ。アリスに咎める気がないと知ると、肩をすくめて再び語り始めた。
「実はお願いがあってここにやって来たのです」
お願いというのは愚痴を聞くことではなかったようだ。
「国にいた時は向精神波を浴びていたので思いとどまることができていました。ここへ来てからは不安自体がなかった」
ところが再び不安を感じてもここには向精神波を処方する医師などいない。つまりまた存在意義を考えてしまうということだ。
「そんなこともあって、いつでも元にもどせるように意識バックアップを取っていました。そのうちの最新バージョンとひとつ前だけはネット上にアバターを作って生活させていたのです。もし、僕が誤った道に足を踏み込んでしまった場合に備えて」
「それってつまり、ネット上にあなたの双子の兄弟がいるみたいなものかしら」
「そうです。同じ精神構造ですから。ところで双子のシンクロってご存知ですか」
「ええ、双子には同じような事が起こりやすいっていう話でしょう。量子の同時性が関係しているという研究結果を聞いたことがあるわ」
ということは、サッチがもし死を考えると、アバターも自己消滅を考える。バックアップの意味がなくなるのだ。
「逆も然りです。アバターが何かよからぬ事を考えれば、なんとなく僕も同じような事を考えてしまう。今、彼は何かを企んでいます。それをあなたに突き止めて欲しいのです」
「ご自分で聞いてみればいいじゃない」
サッチが首を振る。
「相手は僕です。同じ事を考える。だから死にたい理由を聞けば、きっと僕も同じことを考えるでしょう」
「あなたが思い直せばいいんじゃないの」
サッチは肩をすくめた。
「そうする自信がありません」
結局アリスはお願いを引き受けた。ただし説得し切れるかどうかはわからないとだけ釘を刺した。
サッチの情報からアバターが立ち寄りそうな場所を探して回った。そしてステーション、つまり外部のネットワークとの接続エリアで彼を見つけた。彼はステーションのバーで『グレンファークラス105』を飲んで物思いに耽っていた。
アリスが声をかけるとすぐに意味を察したようだ。
「僕のことはもう知っていますよね」
「ええ、サッチのアバターでしょ。呼び方はサッチでいいのかしら」
サッチのアバターは少しはにかんだ。
「いいえ。彼自信ではないので、ダッシュとでも呼んでもらいましょうか」
サッチ’(ダッシュ)。つまり同じ内容の複製という意味だ。
「分かったわ。ダッシュ。なら私がきた理由ももう分かっているんでしょう。サッチはあなたがどうするつもりなのか知りたがっているわ」
「そうでしょうね。不安は膨らむばかりだし、もう消えてしまいたいという欲求は抑えきれそうにない」
ダッシュの目が細められた。微笑みは蜻蛉のように儚げだ。
「自己消滅するつもり?」
「いいえ。そのつもりはありません。もしかしたらうまくいくかもしれない方法を教えてもらったんですよ。エルドラドってご存知ですか」
聞いたことがあった。ネット上のどこかに存在する黄金郷。そこでは一切の制限がなくどんな希望も叶うという。
「エルドラドで何をするつもりなの」
「何も。ただ不安を消し去るだけですよ。可能ですよね。きっと」
彼の笑みはどこまでも儚げだった。
それからすぐにダッシュは消えた。エルドラドに旅立ったのだ。
そして時期を同じくしてサッチもまた消えた。サッチの同僚が部屋を覗きにいったら、つい今しがたまでいたかのように、テーブルの上ではスープが湯気を立てていたという。サッチはまるで蒸発したかのように消えてしまった。
それがどういうことなのか。双子のシンクロ。ダッシュはエルドラドで不安と一緒に自分自信も消し去ってしまったのではないだろうか。そしてドリームシティには物質を元素まで分解する手段はいくらでもある。
だからこそ、サッチはアリスにお願いをしに来たのだ。
アリスは酒棚からボトルを一本手に取った。『グレンファークラス105』ボトルにはサッチの名前がペンで描かれている。そして中にはウィスキーではなくきらきらと光る粒子の集まりが収められていた。それはツーダッシュのエネルギー場だった。
ダッシュにあったその後、アリスはサッチの一つ前のバックアップアバターにも会った。二つ目の複製なのでサッチ’’(ツーダッシュ)だ。ツーダッシュもまた、アリスが何をしにやってきたのか分かっていた。彼らはいつだって消えたがっている。だからこそバックアップをのこしておかなければならない。ネット上にバックアップを残せないのなら、リアルに残すしかないし、それができるのはおそらくアリスだけだ。
アリスの右目は重力の僅かな違いから人のエネルギー場を読み取ることができるし、斬霊剣でそれを切り離すことができた。そして切り離したエネルギー場はうまいこと瓶に収まることも知っていた。
サッチはダッシュが消滅したことで同じように消えてしまった。ツーダッシュはサッチの身体がなければ戻すことはできないが、ツーダッシュのエネルギー場はボトルにキープしておくことができる。そのうちサッチの代理人が空のアンドロイドをもってやってくるだろう。そのアンドロイドにエネルギー場を移せば、サッチはアンドロイドとして蘇る。その日までツーダッシュのエネルギー場はボトルキープとして酒棚においておくつもりだ。
カウンターではドリームシティの顔役のひとり、ゲン爺がいつものようにただ酒にありついていた。ゲン爺はアリスが店を始める口利きをしたのでそのお礼である。
「それにしても、エルドラドってのはなんでも願いが叶うんじゃろ。どうしてダッシュは消えてしまったのかのう」
「噂ではエルドラドはジュノーにあるらしいわ」
ジュノーは通商連合が衛星軌道上に打ち上げた直径20キロメートルもあるサーバ衛星だ。物流の管理をするというが、その能力は全人類の分子配列まで管理できるほどだ。
「もしかしたらエルドラドは黄金郷なんかじゃなくて、ブラックホールみたいに人の意識を吸い取ってしまうのかもしれないわ。黄金郷といえば行きたがる人はたくさんいるでしょ」
「サッチもそこに行ってしまったということなのかのう。人の意識なんか集めて何をするんじゃろう」
「さあ。ボトルに入れて眺めるのかも」
アリスは酒棚にキープされたボトルを見た。光の粒子がいつまでも輝いていた。
終
おまけのティスティングノート
『グレンファークラス105』はシングルモルトのスコッチウィスキーです。105という数字がついていますが、ブリティッシュプルーフ表記でアルコール度数60%を示しています。味わいは力強くドライでありながら、柔らかさと温かみを併せ持つ究極のウィスキーとも評されています。各種の記事でもその評価は高くコストパフォーマンスはよいようです。また『グレンファークラス』の原酒はブレンド用のカスク提供はしていません。味わいたければ『グレンファークラス』の名を冠するウィスキーを飲むしかないということですね。
さて今回からアリスは新しいサービスを始めました。始めたというよりお願いされたのですが。アリスが始めたのはボトルキープです。ただしボトルの中身はウィスキーではありません。今回のお話で出てくるウィスキーは『グレンファークラス105』です。このウィスキーは鉄の女で知られたサッチャー元首相が愛飲していたことで知られています。そこで名前をお借りして今回の登場人物にはサッチという名前をつけました。また、双子のシンクロをストーリーに使いましたが、ウィスキー熟成樽で近しい樽をシスターカスクといいい、味わいや出来栄えが似ることがあるそうです。お話にも盛り込めないかと思ったのですが、短編ではややこしくなりそうなので止めました。そのうち別のお話で使いたいと思います。
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