命の水
アリスは目の前のショットグラスのウィスキーを一息で飲み干すと次を頼んだ。目を横に向ければ体圧ガラスの向こうには深海の海が広がり、奇妙な形の魚が泳いでいる。アリスは深海にあるカプセルバーのカウンター席で一人ウィスキーを飲んでいた。
「同じものでよろしいですか?」
「ああ」
「フォアローゼズ・プラチナの電子ウィスキー。ストレートですね」
ワイシャツがはち切れそうなほど体の大きなバーテンが似合わぬ優しい声で言った。
「まだそんな物を飲んでいたのか。アンドロイドってのは融通がきかないな」
声に振り向くとサマンサが笑いながら立っていた。
サマンサはアリスの軍隊時代の友人だ。何度も共に死戦をくぐり抜けて来た仲だ。互いに相手がいたからこそ今こうして酒を酌み交わすことができると知っていた。
「あなたはまだ女には戻れないみたいね」
「性別なんて何の意味がある。おい、バーテン。俺には『ウシュクベ』をくれ。ストレートだ」
バーテンが陶器性のボトルからグラスにウィスキーを注ぐ。とくとくと小気味のいい音がして、琥珀色の液体でグラスが満たされた。
「友情に」
最初の乾杯からしばらく時が経ち、ショットグラスはピラミッドが作れそうな数になった。二人はよく飲み、よく喋り、よく笑った。主に笑うのはサマンサだけだったが。
そうしているうちにサマンサがぽつりと言った。
「俺はお前に謝らねばならない」
サマンサが何を言いたいのかアリスには分かっていた。
「その話はまた今度にしましょう」
「今度というのはいつだ?」
サマンサの目が据わっている。こうなるともう止めることはできない。
「あの作戦は俺が行くべきだった。そう分かっていたのに、ディビッドに行かせた。俺はお前たちに嫉妬していたんだ。アリス。お前の相棒は俺なのに、お前とディビッドは別の信頼関係で繋がっている。それが許せなかった」
「昔の事よ。もういいわ」
「よくない」
サマンサがカウンターを叩く。大きな音にバーテンが機械の目を向けた。
「ディビッドは二度と帰ってこなかった。俺が殺したようなものじゃないか」
「もういいから」
「よくない。どうしてお前らアンドロイドはそうなんだ。もっと飲め」
サマンサがショットグラスを押し付けて来る。
「本物は飲めないわ」
「俺の酒が飲めないってのか」
揉み合ううちに二人はスツールからそろって転げ落ちた。ウィスキーのこぼれたショットグラスがアリスの腹の上に乗っている。まるででべそだ。その様子を見てサマンサが床を叩いて笑い始めた。アリスはかけがえのない時間が流れていると感じた。
そんな二人の様子を物陰から憎々しげに見つめる目があった。
YOUKAIの牛頭だった。
「俺は笑いは嫌いだ。悲鳴と呻きが好きなんだ」
牛頭はするすると床を這い進むとバーテンの背中に飛びついた。そして頭からバーテンの体に溶け込むように潜り込んだ。
バーテンは背中を少し掻くような仕草をしたが、何事もなかったように仕事に戻った。ただ、目が違っていた。バーテンの目には憎しみが溢れていた。そして床で笑い転げる二人を横目で見ながらバックヤードに行くとサーバーラックの扉を開き片っ端からスイッチを切っていった。ケーブルを引きちぎると最後に横に置かれた物を掴んでにやりと笑った。
縋り付くようにしてカウンターに這い上ったサマンサは、空になったショットグラスを力強く置いた。
「おい、バーテン。デベソを一杯追加だ」
そしてまた笑いながら床に崩れ落ちた。
それを支えるアリスだったが、アリス自身電子ウィスキーがしっかり回っており、うまく支えられず後ろにたたらを踏んで窓にしたたか後頭部をぶつけた。ものすごい大きな音がしたと思うと、吹き出した海水が顔にかかるのがわかった。
いくらアンドロイドが頑丈にできているといっても、後頭部をぶつけたくらいで体圧ガラスが割れるはずがない。とはいえ深海のカプセルバーで水漏れが発生するのは致命的だ。辺りを見回すとバーテンがショットガンを構えているのが目に入った。
「それは何のつもり? ちょっとサマンサも何か言って……」
サマンサが床で腹を押さえているのが目に入った。血が滲んでいた。
「サマンサ!」
「泣け! 叫べ! 俺様に許しを乞え!」
バーテンは所構わずショットガンを向けて撃ちまくった。大きな音が響く度に耐圧ガラスのひびが大きくなった。
「ははははは。どうだ、怖いか。許しを乞え。許しはしないけれどな。俺は地獄の番人牛頭様だ。亡者の叫びと呻きが何より好きだ。圧力装置を破壊したからもうすぐここは潰れる。お前たちが地獄にやって来るのを先に戻って待っているぞ」
牛頭に取り憑かれたバーテンは最後の一発を耐圧ガラスに向けて発射すると、ショットガンを放り出して出口に駆けた。そして転送エレベータに飛び込んだ。扉が閉まる直前、アリスはカウンターに並んだショットグラスを投げつけた。
牛頭は緊急脱出ボタンを押した。緊急脱出装置としてカプセルから切り離された転送エレベータは海面に向かって上昇を始めた。これで女たちがカプセルから脱出する手段はなくなる。戦争をしていたようなやつらだ。カプセルが潰れれば勝手に地獄に行くだろう。
牛頭は腹のあたりがひどく熱いのに気がついた。腹から煙が上がっていた。
「熱い。ちくしょう」
さっき女にショットグラスを投げつけられた場所だ。女が投げつけたのは『ウシュクベ(命の水)』だ。地獄の番人に命の水をかけるなんてなんて。慌てて腹を叩く。その時肘がボタンにぶつかって行き先が勝手に設定されてしまった。
「うそだろ」
行き先は生命の樹だった。
「アリス。窓が割れそうだ」
アリスは窓に飛びついてガラスを押さえた。だが深海の水圧はアリス一人でどうこうできるものではない。このガラスが砕ければサマンサは終わりだ。必死で脱出方法を考えたが緊急脱出装置がない今、サマンサを無傷で海上まで連れて行く方法はなかった。
「アリス。俺はもうだめだ。お前なら上まで行ける。こいつが潰れる前に一人で脱出しろ」
「あなたを置いて行けるわけないでしょ」
「こいつが潰れたらお前も無傷では済まない。行け」
「だめよ。何か方法が、方法があるはず」
アリスはあらゆる方法を検討した。だが可能性はことごとくサマンサの腹の傷によって潰されてしまう。どんなに鍛え上げた人間だろうと、深海から潜水具もなしに地上まで泳ぐことはできない。ましてや深傷を負っていてはなおさらだ。圧力が減った海面近くでは、血が傷口からシャワーのように吹き出すだろう。アリスはサマンサを抱き上げ手を握りしめた。
「最後まで一緒にいるわ」
サマンサは何も言わずアリスの胸の顔を埋めた。耐圧ガラスが嫌な音をたて始めた。最後の時が近い。
その時、どこからか聞き覚えのある声がした。かつての恩人でアリスの設計者であるクエーカー博士の声だった。その声はどこか胸の内から響いて来るような、やさしい声だった。その声がひとつの可能性をアリスに伝えた。アリスは頷いた。
「ねえ。サマンサ。一つだけ二人で脱出できる可能性がある。誰よりも強いあなたならその可能性に賭けて生き延びると信じてる」
サマンサはアリスを見上げた。出血のため唇が青くなっていた。それでも目には力が宿っている。
アリスは作戦を伝えた。
「ふざけるな」
サマンサが怒りに震えている。
「それじゃあ、お前の意識はどうなるんだ。俺はお前を犠牲にして生きたいとは思わない」
「でも私の身体は残る。あなたが私の身体に意識転送して生きてくれるなら、私は消えても構わない。だって、私はアンドロイド。あなたは人間。何を優先すべきかは決まっているわ」
「友がいない人生なんて意味がない」
「いいえ。人はいるだけで価値があるものよ。さあ、転送して」
「ふざけるな」
サマンサは消えそうな声でもう一度そう言った。アリスはサマンサの頭をやさしく抱きしめた。
ついにカプセルの骨格が折れた。大きな音が響き渡り耐圧ガラスが砕け散った。一斉に流れ込んできた大量の海水が嵐のように荒れ狂い全てを暗黒の底へと押し流していった。
アリスが海面に顔を出した時辺りは真っ暗で頭上を満天の星が埋め尽くしていた。無数の星で暗闇でも水平線がくっきりと見えた。GPSの電波を捕まえた。最寄りの陸まで10km程だ。たいした距離ではない。
近くに何か浮かんでいるのが見えた。バーのカウンターボードだった。アリスはボードに上がるとその上であぐらをかき、偶然掴んだものを目の前に置いた。陶器製のフラゴン。『ウシュクベ』のボトルだった。アリスはボトルの栓を抜くと口に一口含んだ。
最後の最後でサマンサはこう言った。
「俺は格好良く死にたい。友に抱かれて死ぬなんて最高じゃないか。最高すぎて涙が出る」
アリスは残ったウィスキーを海に注いだ。空になったボトルを放り投げた。
「さよなら。サマンサ」
ボトルはしばらくの間波の合間を漂っていたが、やがて沈んで見えなくなった。
終
おまけのテイスティングノート
お話に出て来るウィスキー『ウシュクベ』はスコットランドのブレンデッド・ウィスキーでなんとモルト比率が60〜80%と非常にリッチな配合になっています。ただしブレンドレシピは極秘なのだそうです。ちょっと謎めいていて楽しいですね。ボトルは陶器製の円柱でどこか懐かしさを感じさせます。『ウシュクベ』という名前はゲール語の「Uisge-beatha(命の水)」から取ったそうです。
さて、アリスと友人サマンサとをやっかむ妖怪は牛頭(ごず)といいます。実は牛頭は牛頭馬頭(ごずめず)という地獄の妖怪です。地獄で亡者を苛む地獄の番人で牛頭と馬頭の二人でひと組ですが、このお話では『ウシュクベ』と掛け合わせたかったので牛頭だけ登場してもらいました。『ウシュクベ』と『うしくび』ダジャレです。牛頭が取り付くバーテンの体が大きいのは攻殻機動隊のバトウをちょっと意識しています。馬頭は『バトウ』ということで、、ちょっと無理がありました。
そんな登場人物たちが「命」を中心に物語を形成していきます。地獄の番人牛頭が「命の水」を苦手とするのは私の勝手な設定です。果たして高度に進んだアンドロイドならば命を持つことがあるのか。このあたりは私にとって永遠の課題となりそうです。