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ドライブインなみま|小説 マカロニグラタン編
冬が溶けたようなやさしい匂いがした。じぶんが誰なのかもわからないのに、この匂いは知っていた。これがグラタンという食べ物だということも。いま食べると上顎の感覚がおかしなことになることも。それでもこのグラタンの旬はいましかないということも知っていた。
わたしは、からっぽの頭をゆるゆるとなでる湯気に切れた記憶がつながればいいのになあ、と思いながら「いただきます。」と合掌した。
木のスプーンでサクサクの表面を突くと中はとろとろで、見るからに熱々だった。でも旬を逃したくなくてふうふうと息を吹きかけてからパクっといった。ハフハフ言いながら、熱々を舌で転がす。最初は熱さで味がわからなかったけれど、ゆっくりと咀嚼して味わうと、ホワイトソースの自然な甘みは繊細にわたしを満たした。
「うううん。おいしい。」
口からうれしさが漏れる。ひと口お冷やを含むと上顎の感覚がおかしなことになっていた。"そうそう、これこれ"とこころのどこかでつぶやくと、さっぱりと泣きたくなった。目を瞑り、ふうっと息をはいてからお冷やを飲んだ。思い出せないのに追憶している、不思議な感覚だった。記憶の縁を人差し指で突かれたようで、くすぐったい。くすぐったいけれど、それ以上の細かなことは溢れてはこなかった。
「お冷やおつぎします。」
店員さんが空になったコップへお冷やを注いでくれた。「ありがとうございます。」とお礼を伝えたあとにまたグラタンを味わった。
記憶の糸口はそう簡単には見つからなかった。けれど、じぶんを手放して不安に押し潰されそうなわたしにグラタンが「大丈夫。」と言っているような気がした。わたしは余計なことは考えず、グラタンを味わうことに集中した。
食べ終えると「ごちそうさま。」と合掌して、ホットコーヒーを注文した。そして、バッグに入れてある日記を取り出してページを捲る。
グラタン大好き。この世でいちばん。わたしの宝物。
わたしの字で書いてある。書いたことは憶えてはいない。流れるようにページのいちばん最初を捲った。
直感は大事。知ることも大事。でもそれだけではダメ。知って体験して考えないと体の底まで落ちてはこない。おそれずにどんどんチャレンジしていこう。
わたしの字で書いてある。書いたことは憶えてはいない。けれど、納得してつい肯いてしまう。わたしの知らない部分がその言葉の意味を知っているのだろう。たぶん。
「今日は天気がいいねえ。冬真っ盛りやのに、今日だけ春を前借りしたみたいで。また明日から寒さが戻るって気象予報士さんがゆうてたわ。まほちゃん風邪ひかんように気いつけてね。」
ドライブインなみまの店主さんの由美子さんがホットコーヒーを運んでくれた。わたしは日記から顔をあげて由美子さんに「こんにちは。」とあいさつした。
「ありがとうございます。またグラタン食べにきました。やっぱりおいしかったです。ほんまに今日は春みたいであったかいですね。由美子さんも体調壊さんように気をつけてください。」
そう伝えると由美子さんは「ありがとう。うれしいわ。マカロニグラタンは冬限定やからまた春までに食べにおいでね。まほちゃん、ゆっくりしてって。」と微笑み、調理場へ移動した。
体に満ちる冬が溶けたようなやさしい温度へホットコーヒーの芳醇な匂いがプラスされる。カップを手に持ちそっと啜ると、口いっぱいにキレのあるコクが広がり、こころのゆるんだところがキュッと引き締まった。そして、テーブルへ置いた日記を手に取り開いた。
今日はしんどい。庭のレモンの木に実がなる。グラタンを思い出す。さみしい。なみまへ行ってグラタンを食べよう。グラタンはわたしの人生そのもの。決して忘れない。
そう書いてある下は空白だった。わたしは庭にあるレモンの木を思い浮かべた。その木の根元で楽しそうに跳ねるなにかもいっしょに。そのなにかには白い霧がかかり姿は定かではなかった。でもそのなにかは、深くやわらかい熱を放ってわたしの胸の奥まであたためる。わたしはそのページをすこし眺めてから日記をバッグへ仕舞い、コーヒーを飲んだ。
𓃢𓃢𓃢
わたしのいちばん古い記憶は、真っ白い天井へ線路のようなカーテンレールが這う無機質な風景だった。ここがどこかわからない。状況を把握しようと首を軽く起こすと、機械と管につながれたわたしの体が見えた。
「あ、ツノダさん!ツノダさん、わかりますか?」
近くにいた人がわたしへ「ツノダさん」と問いかけてくる。"ツノダ?わたしはツノダと言う名前なのですか?"そう言いたいのに口が遠くてつながらない。どうしていいのかわからず、とりあえず頷いた。その人が他の人を呼ぶと、わたしの周りに何人か集まって来てそのうちのひとりが「ツノダさん。ここがどこかわかりますか?」と問いかけた。わたしは首を横に振り、周りの人たちをひとりひとり見た。誰のことも知らなかった。「では、ごじぶんのお名前はわかりますか?」さきほどの人がまた問いかけるので、わたしはまた首を横に振った。周りの人たちだけで難しい言葉を話して、わたしは不安になった。すると、さきほどの人が「ここは田山総合病院です。あなたは事故に遭いここへ運ばれてきました──」と状況をゆっくりと説明してくれた。病院という意味も、事故に遭うという意味も、話している人がお医者さんということもわかったけれど、じぶんのことはさっぱりと抜け落ちていた。ツノダマホという名前も違和感しかなかった。そのあとに何度か質問をされてから色々と検査をすることになった。
検査の結果はどこにも異常は見つからなかった。お医者さんの診断は逆行性健忘症ではないか、ということだった。それは記憶がいつ戻るのかもわからない、もしかしたら戻らないかもしれない、という不安定なものだった。
その日からわたしは角田麻帆として生きている。生まれたての気分なのにこの世界のことはとても知っている、不思議な感覚で生活している。
わたしには姉がひとりいたようで、嫁ぎ先の東京からこちらへ帰郷して、わたしの入院の手続きや支払いや着替えなどを病院へ届けてくれた。とてもありがたくて感謝したら「なにゆうてんの、ふたり姉妹やのに。遠慮はなしね。」と、やさしい言葉をかけてくれるのに、姉の名前も、性格も、声すらも初対面のようで、そのことがとても申し訳なかった。
退院すると、姉も仕事の関係で1週間程して東京へ戻り、わたしはひとりで暮らした。生活にはなんら不便は感じなかったけれど、忘れ物をしてそれが何か思い出せないような曖昧なまま半年が過ぎた。
居間にはフォトスタンドへ写真が数枚飾られてあり、たぶんわたしなのだろう、笑顔の少女と姉と両親といっしょに四角いフレームに収まっていた。しかし、写真の両親の顔を見ても思い出せない。ふたりの遺影は居間の写真よりも歳を重ねたもので、いまに近い過去なのに思い出せなかった。
居間の写真には大きな犬と撮影したものもあった。このときのわたしはいちばんの笑顔で、大きな犬も笑っているように見えた。お互いが体を寄せ合い、見るからにしあわせそうだった。その写真を見ると、大きな犬に触れたことは憶えていないのに、そのずっしりした手も、やわらかい毛並みも、熱の塊のような体温も、振り切るしっぽも、息遣いも、大きな犬のかたちそのものが目からあふれて流れ落ちた。なぜあたたかいきもちになるのかはわからない。ただ大きな犬を見ていると不安は消えて安心することができた。
そして、1か月程前にわたしの部屋の本棚から日記を見つけた。それを読むと毎日は記していないけれど、わたしの日常が垣間見れた。わたしが建築士として働いていたことは姉から聴いていたし、仕事部屋には製図机やデスクにパソコンが置いてあったが、そこでじぶんが何をしていたのかはわからなかった。しかし、日記からは仕事にとてもやりがいを感じていたことは読み取れた。ついこの間、勤めていた会社の上司と仲の良かった同僚が見舞いに来てくれた。わたしにはやはり初対面のようで、以前のわたしのことをいろいろと話してくれたけれど、知らないことが申し訳なくて、気付かれないようになるだけ明るく振る舞った。
知らないことが多いと疲れてくる。わたしは疲れると大きな犬の写真を眺めた。そうすると、ガチガチに固まった魂がやさしく解けるような気がした。そばにはいないのに、大きな犬が寄りかかっているようなあたたかさを感じた。
𓃢𓃢𓃢
それから少し経つと、隣の松田さんが訪ねてきた。
「まほちゃん、あのな、あんたんちの周りをウロウロする見たことない男の人がおるんよ。何回か見てて、なんか怪しいし、変やなって思って声かけたら"道に迷いました"ってドギマギしてて。やっぱり怪しし、戸締りきちんとして気いつけや。寝るときは近くに角材置いとき。ほんでなんかあったら隣のウチまで走って逃げておいで。な?」
松田さんは畑仕事の帰りにうちへ寄り心配そうに教えてくれた。わたしはお礼を伝えて松田さんと別れると、さっそくうちの戸締りを確認した。
その日の昼過ぎにうちのチャイムが鳴るのでインターホンのカメラを見ると知らない男性が立っていた。わたしは何気なくマイクで「はい。」と出ると、その人はちいさく頷いてから話しはじめた。
「あの、僕、スズキタクミと申します。突然、すみません。でも、どうしてもお伝えしたくて、でも信じてもらえないかもしれないし、でもどうしても伝えないといけないと思いまして、はい。あの、僕、あなたが事故に遭われたときの第一発見者です。」
その人はスズキさんというらしく、とても申し訳なさそうにまたちいさく頷いた。わたしはふと松田さんの言葉を思い出して急に怖くなった。
「あの、もしかしてですが、あなたは大きな犬、犬種はバーニーズ・マウンテン・ドッグですが、以前いっしょに暮らしていませんでしたか?」
バーニーズ、マウンテン、ドッグ。知っているようで知らない。けれど、深い哀愁が胸の奥であふれた。恐怖よりもインターホンの前にいる人がなぜ犬のことを知っているのかが気になった。
「バーニーズ、マウンテン、ドッグって、黒に近い焦茶色と茶色と白色の毛並みですか?」
わたしが話すとスズキさんは「そうです。そうそう。」と返事をした。わたしは居間へ視線を移して写真を見た。
「あの、その犬がどうしたのですか?」
わたしが伝えるとスズキさんはまたちいさく頷いた。
「あの、ここでお話しするのもなんですし、家にあがるのもなんなんで、いまからドライブインなみまでお話ししたいのですが、お時間は大丈夫ですか?」
スズキさんは周りを気にする様子で、でもそれは怪しい仕草ではなくわたしを気遣っているように思えた。わたしは直感を信じた。
「わかりました。では1時半になみまで待ち合わせしましょう。それでいいですか?」
わたしが伝えると、スズキさんは「わかりました。」と言い、頭をペコペコと下げてカメラから消えた。時計を見ると1時前で、わたしは慌てて支度をしてうちをあとにした。
なみまの駐車場は北風がゆるやかに流れていた。シャラシャラと背の高い椰子の木の葉がゆれている。わたしが入店するとお客さんは多いけれど、座る席はあった。店員さんが案内してくれて着席してアウターを脱いだ。すると、スズキさんががわたしの席へやってきた。
「どうも、さきほどは、急に失礼しました。」
そう言われてわたしは「いえ、こちらこそ。」と伝えた。そして、ふたりに流れるぎこちない空気を破るように店員さんがお冷やとおしぼりをテーブルへ置いた。「ご注文はどうされますか?」と訊ねられて、わたしは「ホットコーヒーをお願いします。スズキさんは?」と訊ねた。「じゃあ僕はホットレモンティーを。」とスズキさんはメニュー表を見ずに店員さんへ伝えた。すると、店員さんは注文をリプレイして調理場へ消えた。
誰かの会話と、微かに聴こえるBGMと、食器の擦れる音が響くなか、スズキさんはちいさく頷いた。
「あの、こんなことを話しても信じてもらえないでしょうし、驚かれると思ったのですが。僕、トリマーでして。トリマーは関係ないのですが、子どもの頃から、その、動物の霊が見えるんです。幽霊?ってゆうんかな?それで、あなたが事故に遭う前に、僕、あなたの後ろを歩いてたんです。そうしたら、反対車線からバーニーズが飛び出てきて、あなたへ体当たりしたんです。すると、あなたがつまずくようにその場から離れて、そこへ車が突っ込んで来たんです。間一髪でした。すこしだけ車と接触しましたが、もしバーニーズが体当たりしなかったらあなたの命は危なかったと思います。」
スズキさんの話が途切れると、店員さんがホットコーヒーとホットレモンティーを運んでくれた。店員さんが「ごゆっくり。」と伝えて、わたしは頭を軽く下げた。そして、スズキさんの話を反芻した。
「あの、そのバーニーズは、反対車線から出てきたのですか?」
わたしが訊ねるとスズキさんは大きく頷いた。
「はい、そうです。勢いよく飛び出して来ました。僕は倒れたあなたに駆け寄り救急車を呼んで、そのあとに周りを見渡したのですが、バーニーズはいなくて。でも確かに見たんです。あなたが救急車で運ばれたあとも周辺を探したのですがいなくて。そのときに僕、気がつきました。あのバーニーズは霊だったのかもしれないと。あなたを助けるためやってきたんだと。」
スズキさんはホットレモンティーにザラメを2杯入れてゆっくりと円を描いて、浮かぶレモンの輪切りをティースプーンで沈めて軽く潰した。ぶわっとレモンの匂いがした。目の前にあるコーヒーの匂いを打ち消すほど強く香るレモン。ふと、うちの庭にあるレモンの木が頭に浮かんだ。落ちたレモンの実を咥える大きな犬。その体は楽しそうに地面を跳ねる。大きな犬はこちらへ向かってくる。わたしが名前を呼ぶ──
「グラタン。」
わたしから落ちた。
落ちてあふれた。
あのずっしりした手も、やわらかい毛並みも、熱の塊のような体温も、振り切るしっぽも、息遣いも、満面の笑みも。そして、犬のグラタンのかたちをした熱がわたしの目からあふれて流れ落ちた。
「あ、大丈夫ですか?」
スズキさんは慌てた様子で、テーブルの固いペーパーナプキンを数枚取りわたしへ手渡してくれた。わたしはそれで口元を押さえた。そして、スズキさんに「すこし待ってください。」と伝えて姉にメールした。返信はすぐにきた。
そうよ。麻帆のなによりの宝物は犬のグラタンよ。思い出した?
姉の言葉はゴシックに変換されて味気ないはずなのに、どこまでもやさしかった。
グラタン。わたしがつけた名前。わたしの大切な、唯一の相棒。
わたしは固いペーパーナプキンで鼻を拭いた。
「スズキさん、ありがとうございます。あの、わたし、あの事故で記憶がなくて。でも、スズキさんのおかげでいちばんの大切な記憶を思い出しました。ありがとうございました。」
そう伝えると、スズキさんは「伝えてよかったです。」と微笑み、レモンティーを啜った。
グラタンの笑みが浮かんだ。そして、わたしのふくらはぎ辺りに熱を感じた。熱の塊がわたしに寄り添っていた。記憶はグラタンのことだけで、あとはあふれてはこなかった。それでもわたしは充分にうれしかった。
「スズキさん。お昼は食べましたか?まだでしたら、お礼にグラタンをおごります。ここの、世界一、おいしいんですよ。」
わたしの鼻声はそっとスズキさんへ届いた。スズキさんは「はい!じゃあごちそうになります!」と、笑顔で応えてくれた。
わたしは店員さんへ声をかける。
「あの、グラタンをふたつ、お願いします。」
了