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根本を疑う
『君はどう生きるか』感想日記
最近この本を手に取る機会がありました。本書には、教育現場のみならず、私たちの生き方や思考の根底に関わる多くの問いが詰まっています。
この感想日記も8回目となりましたが、今回は「根本を疑う」というテーマについて掘り下げていきたいと思います。
「普通」を超えて――根本を疑うという行為
前回、「普通」という言葉が思考停止を招くことについて触れました。この「普通」を問い直すことは、「当たり前」とされる前提そのものを見つめ直すこと、つまり「根本を疑う」という行為につながります。
例えば、「廊下を走らない」というルールを例に挙げて、「なぜ廊下を走ってはいけないのか」という疑問にとどまらず、「そもそも廊下とは何なのか」という根本にまで遡ると、その真意が見えてくる気がします。
これは単なる屁理屈ではなく、目に見えるルールや慣習の背景にある目的や意図を問い直すことは、新しい視点を得るための鍵です。ルールそのものではなく、それを支える価値観や前提を探ることで、私たちは「考える」という行為を深めることができるのではないかと思います。
「学ぶって何?」――学校教育の根幹を問う
では、教育そのものの根本を疑うとしたらどうなるでしょうか。著書には、著者が幼少期に親戚のおじさんから受けた問いかけが記されています。
ぼくは小学生の頃,同居していた親戚のおじさんからよく質問攻めにあいました。
「今日,何してた?」と聞かれて「学校に行った」と答えると「学校ってなんだ?」と聞かれます。「学校ってのは,勉強する所だよ」と返すと「勉強ってなんだ」と聞かれます。
「勉強ってのは,国語とか算数とかだよ」と言うと続けて「国語ってなんだ?」「文字を読んだり書くことだよ」「文字ってなんだ?」 「文字ってのは漢字とかひらがなとか」 「漢字ってなんだ?」「漢字ってのは昔中国から来たもので」「中国ってなんだ?」……という感じです。
こうした問いは無限連鎖のように続きます。一見答えがあるようで、実は「何を前提として考えるか」によって答えが変わる問いです。このプロセスを通じて見えてくるのは、私たちが普段いかに「考える」ことを曖昧にしているかという事実です。
150年続く学校教育の根本を疑う
現代の学校教育は、150年前の明治時代に始まった制度の延長線上にあります。当時の教育制度は、近代化のための労働力育成や国民統合を目的として設計されました。しかし、今の社会はその時代とは大きく異なります。
VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代と言われる現代において、「教育は何のためにあるのか」「学ぶとはどういう行為か」という問いはますます重要になっています。これらの問いに対する答えが曖昧なままでは、私たちは教育の本質を見失ってしまうでしょう。
「教育」を超えた問い
ここで視点を広げ、「学ぶ」とは何かをさらに深く考えてみます。たとえば、人間以外の動物も「学ぶ」ことをします。鳥が巣を作る技術を学び、子どもに伝えるように。では、動物の学びと人間の学びの違いは何でしょうか?
人間の学びが特異なのは、「自己を疑う」力にあるのではないでしょうか。他者から知識を得るだけでなく、自分の思考や価値観そのものを問い直し、刷新できる力。これが「人間らしい学び」と言えるかもしれません。
では、「学び」をさらに拡張し、「生きる」とは何かを考えてみましょう。「学び」は単なる知識の習得ではなく、「よりよく生きるための試行錯誤」と考えることもできます。そう考えたとき、学校教育の目的は、「生きることの試行錯誤を支援すること」にあるのではないでしょうか。
最後に――問い続ける力
「根本を疑う」という行為は、答えを得るためだけのものではありません。むしろ、問い続ける力そのものが、私たちを成長へと導くのです。「学ぶ」とは何か、「考える」とは何か、「自由」とは何か。これらの問いに対して明確な答えは出なくても、問い続けること自体が、私たちの生き方をより豊かにしていくはずです。
教育現場でも、日常生活でも、こうした問いを共有し、共に考える姿勢を育てていきたいと感じました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。