No.22 おやつの時間
へっぽこ娘
母が特別養護老人ホームに入居後しばらくは、今までの生活のルーティンがこびりついていて変な感じだった。「デイサービスの準備をしなくちゃ」「私の部屋の鍵かけなくちゃ」というような指令が無意識に湧いてくる。そのたびに「母がいないのだからそれは気にしなくてよかったんだった」と自分に言い聞かせるような感じである。
在宅勤務時、リモートで打合せをしている最中に母が部屋に乱入してくるのを気にすることもなくなった。職場に頭を下げて時短勤務をさせてもらうこともない。職場の仲間と同じ動きができることが嬉しいという気持ちを毎日静かに感じていた。
特養には面会に行けるのだが、母が迎えに来てくれたと思ったら可哀そうだと思い、会いに行くのは少し経ってからにしようと思っていた。ケアマネさんも、母はまだ強い帰宅願望があるので、その方がいいと言って下さった。面会せずに母が好きなものを差し入れたりはしていたが、さすがに2週間もするとどうしているか心配になってきた。
そんなある日、持ってきてほしい物があると特養から連絡が入ったのを機に「面会はどうですかね?」とケアマネさんに聞くと「そうですね。チャレンジしてみますか?」と言われたので、会えそうな様子だったら会ってこようと思い、とりあえず行ってみることにした。
施設に到着し、まずは遠目で様子を伺ってみようと、母のいるユニットのドアをそっと開けたら、目の前に母が立っていたので本当にびっくりした。ユニット内をスタッフさんと散歩していて、たまたまタイミングが合ったようだ。母は私を見るなり「あら」と言った。まだ私のことはわかってくれていたので少しホッとする。
部屋に行き、母の好きなプリンを差し出すとあっという間にたいらげた。「もうないの?ここは何も食べさせてくれないのよ」と言う。そして「盗まれて何もないのよ」「私は何でここにいるの?」「何が何だかさっぱりわからない」と、相変わらずのセリフを何度も繰り返していた。私は「そうなんだー」と聞きながら、母が理解できそうな言葉でやさしく答えてみる。その時は頷いているが、きっとすぐに忘れてしまうんだろうなぁと、入居時よりひと回り小さくなったように感じる母の手をとりながら少しの間おしゃべりをした。
母は家にいるときと同じように、パンパンに物が入ったバッグをもっていた。中を確かめると着替えや肌着、靴下や入れ歯洗浄剤などが出てくる。タンスにほとんど着替えが入っていないのが納得できた。スタッフの方も母の思うようにさせて下さっているのだと思った。
その後、何となく落ち着かない様子の母と、気分転換も兼ねて屋上の庭園に行ってみたが、ほどなく雨が降ってきたのであきらめて部屋に戻ったところで、おやつの時間になった。これが帰るいいタイミングになった。「あんたも食べていったら?」と母が言う。「私は大丈夫。ここにいる皆さんのおやつだからね」と返事をした後「おやつの時間だから帰るね。また来るからね」と私の思いで少し無理やり握手をした。すると母は険しい顔になり「知らないよ!」と強い口調で言った。その言葉が今の母の精一杯の抵抗のように聞こえた。
握手の手をほどいた私は、敢えて後ろを振り返らずに帰ってきた。熱いものが込み上げてくる。でもすぐに気を取り直し、これでよかったんだと自分自身に言い聞かせた。