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対話道の探究(19、~すべき、~でなければ)

自分の外に対する「~すべき」「~でなければ」

生まれると、生まれた限りは・・・
どこかに属することになる。
家族、社会、組織・・・

属しているということは

そこで生きる枠というか、ルールみたいなものを知ることになり
それを守ることで、生きやすい状況を築くともいえる。

これは私が勝手に感じていることだけれど
時間がたつと、
逆に、生きづらくなることもあると思っている。

誰かとのコミュニケーション、関係構築という点からいうと

「守らなければ」「守るべき」という気持ちが
重たくなる感覚。

それによって、
属する場所が自分を守ってくれることになる反面で

自分を出さず、抑えこんで生きる人が出てくるように感じる。

誰かとかかわることで
成長も生きる喜びもあるのに

かかわるために、傷つけないために、途切れないために・・・

自分以外のものを優先しすぎるあまり
自分が傷ついていることだってある。

忍耐強い人、我慢強い人の評価って、どうなんだろう。
場を乱さない点では「良い人」かもしれないけれど
場合によっては「言うとおりになる、都合の良い存在」
かもしれなくて。
度を過ぎると爆発してしまう人、壊れる人が生まれる場合もある。

別の視点から言えば

自分の中だけでなく
自分以外の存在にもそれが影響することがある。

守らない人への批判的、否定的な自分が現れる。
「~しないなんてあり得ない」
「~してあたり前」
の認識だけにとらわれると、
「あの人が悪い」「あの人のせいで乱れる」
という個人を責める場合も。

実は、
本当は自分も、もっと自由に生きたいと望んでいるのに
できあがった自分の「場所」を
壊せないし、守りたい気持ちが優先する人もいる。

みんなちがうのがあたり前。
ちがっていいんだよね、と認める気持ち。
ちょっと堅い言葉でいえば「尊重する」ということ。

「そんなことイチイチ気をつけるなんて無理だ」
という意見もあるだろう。

コミュニケーションや関係構築において
完全、完ぺきに近づけるには
それなりの「力」が必要なことが多いのだ。

おかれている状況や環境で
私たちは変化するから、
お互いに思いやることができるのがベストだけれど
そうではない場合がある。

それもわかった前提で

認める・尊重する姿勢でかかわること。

思うようにできないときもあること
急にスムーズにいかなくなることもあること

それに気づいたときには
立ち止まること、やめること

一緒にいる人がそうなったときにも
伝え合える関係になるのが理想かなと。

自分の内側に対する「~べき」「~でなければ」

自分の生き方、あり方について
「~べき」が強すぎると
本音や本心が置き去りになることがある。

世間体や、どこかの機関が決めた「普通」
自分の地位や役割から決めた自分のあり方など
一般的な標準が

自分の行動や思考を制限あるいは妨げる
と言えるかもしれない。

人が勝手にそう決めているだけかもしれないから

押しつけることはしたくないけれど

命を受けてここにある限り

命が尽きるまでの間は、
何かしらの役割というか、そこにある意義はある気がしていて

それが何かなんて、人のレベルでは計り知れないけれど

せめて、
自分が「こうしたい」「こう生きたい」と願うことの
ほんの少しくらいは、その地点に近づきたいし
そこに向かう自分を許したいなと思う。

それがわずかでも叶う瞬間が
自分を大切にする・自分を認めるということにつながって

実は、自分の外側との自分の姿勢にも
変化が出るような気がしている。



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