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水戸天狗党入門①まだまだ入口
本来は奈良~平安時代をメインに推しているマイナー歴史オタクの北川と申します。
思いがけず幕末というファンの多い時代を好きになり、その中でも比較的知名度の高くないな水戸の天狗党という組織に惹かれるようになりました。
少しずつでも勉強して、noteにその記録を残したいと思います。
入口は『青天を衝け』
天狗党を初めて知ったのは、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』でした。
『青天を衝け』は吉沢亮さん演じる大実業家・渋沢栄一の知られざる幕末志士活動に焦点を当て、同時に草彅剛さん演じる栄一の主君・徳川15代将軍慶喜の再評価も図りました(だいたいどこでも慶喜は扱いが悪いので)。
斬新で画期的なドラマは、コロナ禍の影響で通常よりも短い40話に終わりながらも高い評価を得ています。
ドラマが放映された当時、私の幕末の知識はほぼFate/Grand Orderしかなく、「慶喜は水戸家に生まれて水戸学の薫陶を受け、一橋家へ養子に入った」という史実の意味すら汲めないありさまでした。
放映前の特集記事で、なんとなくキャスト欄を眺めていたら、
武田耕雲斎:津田寛治
という記述を発見。
「水戸に新選組の人がいたの!?」
と一気に色めき立ちました。
幕末に詳しい方にはおわかりかと思いますが、新選組隊士の武田観柳斎と混同していたんですね……。
(結構初心者あるあるだと聞いて安心しました)
(実際、新選組には伊東甲子太郎など水戸出身の隊士もいました)
そんなわけで印象に残ってWikipediaを見てみたところ、衝撃の史実を知りました。
斬首は武士の処され方ではない
幕末の激動期に命を散らした志士はいましたが、罪に問われた者の多くは切腹して武士の面目を保ちました(長州の久坂玄瑞・真木和泉、土佐の武市半平太など)。
有名人の中には斬首された者もいますが、例えば近藤勇は百姓身分、岡田以蔵は無宿人扱いだったから、といった(心情はさておき理屈としては)納得できる理由があります。
ですが、天狗党は違いました。
水戸から越前(福井県)の敦賀まで流浪したあげく、水戸藩の家老格だったリーダーの武田耕雲斎はじめ多くの武士が次々に斬首されました。
首謀者以外の遺体は首ごと大きな穴に放り込まれて埋められ、明治維新まで弔われることもありませんでした。
(敦賀に残る「武田耕雲斎『等』墓」という史跡名からも「まとめて埋めた」という陰惨さが伝わります)
どうしてそんなことになったのか。
私はいっぺんに知的好奇心を刺激されました。
天狗党と諸生党
無惨な処刑の裏には、天狗党と諸生党の権力争いがありました。
(以後、にわかが乏しい知識をまとめた記録です。間違いは後から調べて認識を改めます)
水戸藩は幕府を支える『御三家』でありながら、他の尾張・紀伊の二家と比べて石高(米の採れる量)が低く、年貢を徴収するのに苦労しました。
にもかかわらず、他家と見劣りがしないようにと取りつくろう必要があったので、藩は常にお金に困っていました。
水戸黄門として知られる2代藩主・徳川光圀以来の『七公三民』という極端な割合の年貢を取り立てても、まだ足りないありさまです。
貧すれば鈍するで、藩士も領民もギスギスしていて、百姓の間では間引きや捨て子が横行していました。
そんな中水戸藩の家督を継いだ9代藩主・斉昭(慶喜の父)は極端な尊皇攘夷(天皇を敬い、外国人を日本から追い出す)思想を持ち、次々に来航する諸外国を毅然として強硬に追い返すようにと主張します。
斉昭の子飼いの尊皇派には身分の低い者が多く、身分が高く過激な政策を好まない保守派の家臣との間に分断が起こりました。
後の世で尊皇派は『天狗党』、保守派は『諸生党』という名で呼ばれるようになります。
(当時の呼び名ではありませんが、今回は便宜的にこの名前を使います)
『天狗党の乱』の経緯
1864年(元治元年)、幕府が開国に舵を切る中、天狗党の中でも過激な一派が「4年前に亡くなった斉昭の遺志を継ぐ」として攘夷の旗を掲げて挙兵しました。
水戸藩内での内乱を経て、最新鋭の銃や大砲を持つ諸生党には敵わないと判断した天狗党は、京で『将軍後見職』を務めていた水戸出身の慶喜へ攘夷の志を伝えようと上洛を始めます。
当初、天狗党員は北関東の各地で押し借り(強引にお金を借りること。一応「後で返す」と言うものの、実質強盗)を働き、拒んだ宿場を全焼させる者もいました。
後に武田耕雲斎のもとで規律が引き締まりますが、『天狗党=強盗集団』という認識は強く残りました。
美濃(岐阜県)までたどり着いたところで、当の慶喜が自分たちを迎え撃つ兵を敷いていると知った天狗党は絶望します。
それなら中国地方の尊皇攘夷が盛んな藩の助けを借り、同盟関係にあった長州(山口県)と合流しようと、山脈を縦断して日本海側から西へ向かおうとします。
しかし山越えの装備を持たない党員には道中は極めて過酷で、精魂尽きた天狗党は敦賀で幕府へ降伏しました。
あまりに凄惨な内ゲバ
天狗党員は当時肥料として使われていた鰊を保存する蔵に押し込められ、厳寒と悪臭の中まともな食糧も与えられずに、何人もが命を落としました。
(実際に使われた鰊蔵が水戸と敦賀に一棟ずつ現存しています)
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そのあげく、上で述べた大粛清が行われます。
同時に、水戸でも諸生党が弾圧を始めます。
耕雲斎の妻は、塩漬けにされた夫の首を膝の上に抱かされたまま斬首され、幼児も含めた他の家族もみな首を落とされました。
他の党員の家族、また尊皇攘夷寄りの考えを持つ藩士も次々と処刑、あるいは投獄されました。
その後も弾圧が続きましたが、約3年後に事態が一変します。
大政奉還で天皇をいただいた薩摩(鹿児島県)や長州が官軍となり、薩長に逆らう幕府は朝敵として討伐の対象になったのです。
耕雲斎の孫をはじめとした天狗党の残党は官軍として敦賀から水戸へ戻り、今度は諸生党やその家族を虐殺し始めます。
諸生党のリーダーだった市川三左衛門は逃亡の末に捕まり、当時でもすたれていた『逆さ磔』というとても苦痛を伴う方法で処刑されました。
一説には明治初年までに水戸藩士の8割が殺されたと言い、水戸からは優秀な人材がことごとくいなくなりました。
明治時代に『薩摩警部に水戸巡査』という言葉ができました。
幕末に大きな戦争を避けた薩摩には警部になれる人材が揃っているが、水戸には巡査程度しか務まらない者ばかり、という意味です。
ぺんぺん草も生えない悲惨さに惹かれる
日本人の多くは『滅びの美学』にロマンを求めます。
例えば新選組は、治安維持組織として浅葱だんだらの羽織を着て大きな顔をしていたのに会津藩(福島県)ともども朝敵とされ、転々と北へ追われて箱館(函館)で散った姿が人気を集めています。
特に、百姓身分から己の道を切り開き、箱館政府で『陸軍奉行並』の地位を手に入れた土方歳三は、司馬遼太郎『燃えよ剣』などの創作に頻繁に取り上げられます。
ですが私は、(もちろん新選組も好きですが)ロマンのかけらもなくつぶし合った水戸藩にどうしようもなく惹かれます。
光圀の時代から醸成され、斉昭の時代にピークを迎えた学問ジャンル『水戸学』は強硬な尊皇攘夷思想を説き、各地の志士たちへ大きな影響を与えました。
例えば吉田松陰は東北への旅の際に10日ほど水戸に滞在し、水戸学の学者や藩士と膝を突き合わせて議論に熱中したことを日記に残しています。
そんな思想的雄藩・水戸藩が内ゲバの末にまったく権威を失ってしまった様に、痛々しさと同時にどこかサディズムを感じてしまうのです。
水戸の人々が憎しみの中で思想を見失い、薩長土肥の面々が新しい国を作っている中延々と殺し合いを続けて、結果人材を枯渇させたという史実を思うとニコニコしてしまいます。
まだまだ小説しか読めていない不勉強ぶりですが、この悲惨で魅力的な水戸藩のことをもっと知りたく感じています。
勉強の成果をちびちびと記録に残して、水戸藩推しの皆さんと共有したいです。
余談
AIさんに誤字を確認していただいたところ、諸生党のあまりの陰惨さと残酷さを信じてもらえませんでした。
そら(そんな畜生なこと)そう(簡単には信じられん)よ。
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