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【光る君へ】苦労人の推し活貴族・藤原行成(前編)

 大河ドラマ『光る君へ』の初期、藤原道長(柄本佑さん)・公任きんとう(町田啓太さん)・斉信 ただのぶ(金田哲さん)と行成ゆきなりが4人で勉強にいそしんでいたのがSNSで『F4』と言われていましたよね。
 高貴な少年たち(中の人たちの事情でそんなに若くは見えませんでしたが)が男子高校生のようなノリで休み時間に雑談したり、『源氏物語』の雨夜の品定めよろしくまひろ(紫式部)やききょう(清少納言)を上からジャッジする姿に、『花より男子』を想像した人も多かったようです。

 この中の公任については以前noteで紹介したので、ぜひご覧ください。

 今回は、道長と一条天皇の両方を推していることを宣言した行成についてお話しします。
 行成を演じているのは、バンド・黒猫チェルシーのボーカルでもある渡辺大知さんです。
 F4の弟ポジとして他の3人から可愛がられ、道長に熱っぽい視線を送って何かと便宜を計るところが印象的です。
 
 行成は推し2人の微妙な関係の中、あちらを立てればこちらが立たずという状況でどのように振る舞ったのでしょうか?

清少納言・中関白家と

定子をめぐる動き

 行成は後述の事情で任官の出発点が低かったのですが、満23歳の時に蔵人頭に大抜擢されました。
 蔵人頭は天皇の秘書のトップで、『光る君へ』の登場人物では藤原実資さねすけ(ロバート秋山竜次さん)・公任・源俊賢としかた(本田大輔さん)が歴任していました。
 これまで低迷していた行成の才覚を見抜いていた母方の親戚・俊賢が己の後任にと一条天皇(塩野瑛久さん)に進言しての人事でした。

 行成が蔵人頭に就いた直後には中宮定子ていし(高畑充希さん)の兄弟・伊周これちかと(三浦翔平さん)隆家たかいえ(竜星涼さん)は長徳の変によって失脚し、後ろ盾を失って出家した定子は内裏の外の『しき御曹司みぞうし』という中宮付き官人の事務所に住んでいました。
 道長が左大臣になって権力を握り、娘・彰子しょうしの成長を待って入内じゅだいさせるのが貴族たちの暗黙の了解となっている状態で、公然と定子をないがしろにする者も出ていました。
 その代表が、演者の金田哲さんから『風見鶏』と呼ばれた斉信です。
(『光る君へ』での斉信は清少納言(ファーストサマーウイカさん)を道長陣営に引き込んで守ろうとはしていましたね。定子トップオタの清少納言からは拒絶されましたが)

逢坂の関を越える?

 しかし行成は定子を愛する一条天皇の意を汲んで、職の御曹司にいる定子に気を配り、定子の女房の代表的存在・清少納言とも交流を続けていました。
『枕草子』にも、清少納言と行成の交流の様子がいくつかの章で描かれています。
 その中でも一番有名なのは、百人一首でも採られたこの歌。

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ
(『史記』の孟嘗君の食客がニワトリの鳴き真似で開かせた函谷関とは違って、私の逢坂の関はなかなか開きませんよ)

百人一首

 という、『函谷関』と(恋愛のたとえ話としてよく用いられる)『逢坂の関』をネタにした知識と機知に満ちたやり取りです。
 百人一首の撰者・藤原定家ていかは、(おそらく)輝く定子サロンを代表するエピソードとして採用したのでしょう。

逸話での清少納言との関わり

 実は、行成が蔵人頭になった経緯を伝える、上で紹介したのとは別の説話があります。

 ある日、行成は宮中で藤原実方さねかたと口論になりました。
 口だけでは済まなくなり、揉み合っているうちに、実方は行成の冠を払い落としてしまいます。
 もちろん、平安時代においてまげを見せることはタブーです。
 現代にたとえるなら、ボトムスのウエストをずり下ろされて下着を丸見えにさせられてしまうくらいの恥です。
 しかし行成はそんな屈辱にも顔色を変えず、落とされた冠をかぶり直して淡々と去っていきました。
 実方にとって不幸なことに、この一部始終を一条天皇が目撃していました。
 天皇は行成の冷静沈着な振る舞いを評価して、蔵人頭として自分の身近に置くことにしました。
 逆に実方は、天皇の怒りを買って陸奥守に左遷されてしまいました。

 実際は、当時の東日本には言うことを聞かない受領ずりょう(地方に派遣された中下級貴族)やまつろわぬ先住民が多くいて、実方は彼らを抑える武官として赴任したという説が有力です。

 面白いのは、実方が清少納言の元恋人として知られていることです。
 上の説話は、行成と清少納言の関係から派生したものかもしれません。
 杉田圭先生の漫画『うた恋い。』では、行成と清少納言(諾子なぎこ)が恋仲だったという設定になっています。


不幸な思春期

孤児からのスタート

 少し時間を戻して、行成の生い立ちから思春期にかけての補足を説明します。
 行成の父は義孝よしたか、その父は一条摂政・藤原伊尹これただでした。
 伊尹も義孝も、百人一首に歌を採られる詠み手でした。
 伊尹は娘を冷泉天皇に入内させて長男の師貞もろさだ親王を儲け、将来外戚として権力をほしいままにできる! となったところで亡くなりました。
 義孝も、当時流行っていた疫病にかかって21歳で亡くなってしまいました。

 祖父と父を亡くした時の行成はまだ2歳で、父方の身寄りのない孤児になってしまい、母方の祖父・源保光やすみつの養子になりました。
 当時は『蔭位』という制度があり、父の官位で息子の任官のスタートラインが決まりました。
 保光は他のF4メンバーの父と比べると官位が低く、必然的に行成も高い位には就けませんでした。

IFがあったら

 とはいえ、父方との縁が切れたわけではありませんでした。
 師貞親王が花山天皇として即位した際、伊尹の息子で行成と天皇の叔父・義懐よしちかが公卿に昇進して天皇を補佐します。『光る君へ』では高橋光臣さんが演じていた、女房を侍らせて酒宴を開いていた人です。
 義懐の陣営には身内が足りず、天皇の乳兄弟・藤原惟成これしげなどの身分が低い者も駒として登用していました。
 もし行成がもう少し早く生まれていれば義懐に取り込まれていたでしょうが、花山天皇が即位した年の行成はまだ元服したばかりの12歳で、政治に参加できませんでした。
 花山天皇の世が長く続けば行成も義懐の引き立てで出世し、外戚になれなかった道長を部下にしていたかもしれません。

 しかし、道長の父・兼家が寛和かんわの変を起こして花山天皇を退位させてしまったために義懐は失脚し、行成も権勢にあずかることができなくなりました。

 その後行成はしばらく備後権介という受領と同じ官職に沈んでいましたが、蔵人頭から公卿に出世した俊賢の推薦で蔵人頭になったのです。

後編へ続きます。


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