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幕末の怖い風習とバタフライエフェクト

 水戸にわか3年、土佐にわか2年の北川と申します。
 水戸について学んでいたら期せずして知ってしまった土佐の習俗と、それに伴うバタフライエフェクトについての話です。


山川菊栄『幕末の水戸藩』

 水戸天狗党てんぐとうへの解像度を少しでも上げたくて、山川菊栄『幕末の水戸藩』(岩波文庫)を読んでいます。

 山川は女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業した社会主義者で、戦前は伊藤野枝や平塚らいてうと論戦を交わし、戦後は労働省の初代婦人少年局長になった人物です。
 水戸藩士であり、同時に藩校・弘道館こうどうかんの教授頭取代理だった青山延寿えんじゅを祖父に持ちます。

『幕末の水戸藩』は晩年の山川が、祖父の残した日記や手紙などの記録、親戚や古老から聞いた話、実地のフィールドワーク他をもとにしてまとめた本です。

 飯嶋和一先生の小説『神無き月十番目の夜』でも描かれている生瀬騒動(常陸国小生瀬村(現代の茨城県大子町)で起こった水戸藩による農民の虐殺事件)から語られ始め、幕末へと続く水戸の政治的構造や人材登用などによる軋轢あつれきの様子を丁寧に、時に辛辣にたどっています。

 生瀬騒動については公的な史料がほとんど残されておらず、小説を読みながらどこかで「本当にこんな残酷なことがあったのかな……?」という疑いすら持っていたのですが、戦後間もなくの頃はまだ伝え聞いていた人も多くいたようです。
 私はやっとこの事件が史実であると納得できました。

 読み進めるうちに、水戸藩主・徳川斉昭なりあき(第十五代将軍・慶喜よしのぶの父)が指示した政策のひとつとして、多子奨励令のことが出て来ました。
 徳川御三家の一角でありながら懐具合の厳しい水戸藩が、人口の減少に歯止めをかけるために出したお触れでしたが、この施策はどうやら本来の斉昭の考えとは違っていたようです。

 斉昭は、自分のような『とうとき人』は多く妻を持って血筋のいい子どもを増やすべきだが、身分の低い人たちは一夫一婦制で充分だ、という考えを書き残しています。

 また、斉昭の祖先・水戸藩初代藩主頼房よりふさ(家康の十一男)が側室に堕胎を命じ、命令を聞かずに生まれた男児を長年捨ておいていた、という記録の筆致は、まったく悪びれていません。

 そんな風土もあってか斉昭も一応発令はした政策にあまりこだわりはなく、水戸では堕胎や乳幼児の間引きが横行していました。
 今で言うフェミニストだった山川は、その姿勢について静かに怒っています。

突然土佐に飛び火

 ここで山川は、水戸以外の例を出しています。
 山川が夫・ひとし(経済学者・社会主義者)と結婚した時の仲人だった文豪の馬場孤蝶こちょうは、土佐の武家の三男でした。
『土佐藩の武士は次男までは相続人の予備としてとっておくが、三男以下は間引く例があった』という文献を読んだ山川は、孤蝶に直接確認しています。

事実その通りです。私は明治三年の生れだったので、危く助かりましたが、三男のことで、も少し早ければやられる所でした。

山川菊栄『幕末の水戸藩』(岩波文庫)P77

 と、孤蝶は証言しました。
 山川は執筆にあたって高知大学講師の外崎光広にも改めて聞き、間引きの風習があったことを確認しています。

 いきなり土佐の話が出てきて動揺してから、岡田以蔵のことを思い出しました。
 以蔵は郷士ごうしの長男として生まれながら土佐勤王党に身を投じ、京都で『人斬り』として暗躍して、長州失脚による尊皇攘夷の一時的な退潮に合わせて勤王党の仲間ともども捕らえられ、拷問の末処刑されました。
 その後の岡田家は、次男の啓吉けいきちが継ぎました。

 まさしく、『相続人とその予備』の構図です。

 以蔵について調べながら、啓吉以外のきょうだいの話はないのかな……とぼんやり思っていましたが、もしそんな慣習があったのなら二人兄弟だったのかもな……逸話もないし……と嫌な納得をしてしまいました。
 岡田家が必ずしも間引きをしていたというわけではありませんが、土佐の郷士は上士じょうしから厳しく差別されて生活に余裕のない家も多く、農民のように労働力が必要でもなかったので、間引きは当時の価値観・倫理観としては合理的だったのでしょう。

 同じ土佐郷士の坂本龍馬は末っ子でしたが、間引かれることなく成人しました。
 坂本家は代々の武士ではなく、商家・才谷屋さいたにやの息子だった龍馬の曾祖父が郷士の株を買って相続しました。
 才谷屋から譲られた資産もあり、郷士としてはとても裕福だった坂本家は、間引きの風習にはとらわれなかったのかもしれません。
 もし龍馬が間引きに遭っていたとしたら幕末の歴史が大幅に変わり、今の高知の圧倒的観光コンテンツもなかったでしょう。

馬場孤蝶と佐藤春夫

 馬場孤蝶という名前に聞き覚えがあったので、記憶をはっきりさせるために調べてみました。

 孤蝶は明治学院で英語を学び、教師をしながら詩や小説を書き、樋口一葉や島崎藤村、上田敏などと交流し、永井荷風の後任として慶應義塾大学の教授に就任した時は佐藤春夫や堀口大學らに教鞭をふるいました。
 後に衆議院議員に立候補して、夏目漱石、北原白秋、与謝野晶子、正宗白鳥、田山花袋などのそうそうたる面々から応援を受けましたが、落選しています。

 荷風と春夫の師弟関係と確執については知っていましたが、孤蝶と春夫との関係については恥ずかしながら初めて知りました。
 孤蝶は『悪の華』(ボードレールの詩とは別)などの探偵小説も書き、探偵小説を好んだ春夫に大きく影響を与えていそうです。
 三田派にわかですが、せっかくのご縁なので読んでみたい……と思ったものの、青空文庫には現在公開中の孤蝶作品はありません(校正作業中の作品はあります)。
 著作権が切れていれば何でも読める、というわけではないのですね……。

 もし孤蝶が間引きされていたら、佐藤春夫という文豪のありようも現在とは変わっていたかもしれず、巡り巡って太宰治は春夫に『芥川賞を求める4mの手紙』を送らなかったかもしれません。
 どうしても芥川賞が欲しかった太宰は他の作家のツテを頼り、その誰かが絆されて推薦して見事芥川賞を受賞した――なんてifも考えられます。

 歴史のif、バタフライエフェクトを考えるのはとても楽しいですね。

水戸に戻って

 土佐の話を聞いて興奮して書き散らしてしまいましたが、再び『幕末の水戸藩』を読み進めてみたいと思います。
 斉昭と側近の藤田東湖とうこの政治から尊王派の天狗党と保守派の諸生党しょせいとうが激しく争うに至る伏線が見えてきて、破綻の予感に今から震えています。

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