関西人にとって「オチ」とは「パンツ」である


「関西ってすぐオチつけたがりますよね(笑)」

これは、あるライティングセミナーに参加したときの話。
セミナーが終わった後、大量のインプットに火が噴きそうな脳みそを甘いお菓子で鎮めながら講師と雑談していた。

「このセミナー全国でやってるんですけど、やっぱり関西人が書く文章にはオチがついてることが多いんですよ!」

え? えええ?
ちょっと待って?

え? むしろオチなくていいんですか?
オチなしで世に出していいんですか?

なんたる衝撃。
オチがない文章を人様の前に出しても良いなんて……。
パンツを履かずに人前に出るのと同じようなもんやん。

私は去年の6月19日からnoteをはじめた。
もうすぐ一年が経とうとしている。

「よーし! どんどん書くぞー!」
そんな勢いはどこへやら……。

さぼりまくって書いていないのかというと実はそうでもなく、「下書き」には山ほど未公開の記事がたまっていっている。
まだ世に出せないと自分で判断しているただの文字の羅列である。

なぜ、公開できないのか?

それは話の「オチ」がついてないからや!

冒頭の講師の一言を聞いた時、やっと腑に落ちた。
私の中に「オチ」がついてないと人前に文章を出せないという、強力なストッパーが働いている。

確かにセミナーの中で「話にオチをつけろ」とは一言も言われていない。

でもプロに習うライティングスキルというのは、プロのファッションコーディネーターにおしゃれな着こなしを習うようなもので、まずはパンツを履くところから教えてくれるわけではないというのが暗黙の了解である。

大丈夫です!
パンツの履き方は教えてくれなくてもちゃんともう履いてきてますし!

それくらいの心構えで臨んでる。

では「パンツ」についてもう少し掘り下げてみたい。
パンツって普段履く時意識してないでしょう?

お風呂から出たあと、「よーし! 今日もパンツ履くぞ!」と気合いをいれて履かないし、
朝起きて「今日も元気にパンツ履いてる!」とは自覚しない。
出かける時にわざわざ「あ、パンツ履いてるかな?」って玄関でチェックもしないし、
取引先でプレゼンする前に「今日はパンツ履いてるから大丈夫!」なんて安心しない。
一日の最後、お風呂に入る前に「あぁ、今日も一日パンツ履いた!」なんてわざわざ充実感に浸りながら脱ぐこともない。

試しに想像してみてほしい。
少し肌寒い日に、「あー! パンツ履き忘れたー!」なんてことはまずない。


そう、パンツはいつも私たちの無意識の中で標準装備されている。
必ず必要なものであり、私たちが人として存在している自覚を陰で支える大切なものなのに、普段は意識されていない。

つまり、われわれ関西人にとっての「オチ」とは「パンツ」である。

普段からわざわざ「この話にオチつけてやるぞ!」と思ってしゃべってないし、文章を書く時もそう。
「オチ」はそんな気合いを入れて装備するものではない。
そもそも気合いを入れてわざとオチをつけた時ほどすべる確率が高い。

でも関西の外に出ると急にこの「オチ」の概念が無意識の世界から表に引きずり出されることになる。
話に「オチ」を求められるのだ。

「やっぱり、関西人は話にオチをつけないとダメなんでしょう?」
「最初からどんなオチをつけるか考えながらしゃべってるの?」

それはまさに「今日パンツ履いてきた?」って唐突に聞かれるようなもの。
キラキラとした期待の目で「今日どんなパンツ履いてるの?」と聞かれているようなもの。

変・態・か!

関西人はみんな一応パンツを履いてるけれど、その時のテンションや体調によって勝負パンツの時もあれば、ゴムがゆるゆるになったくたびれたパンツの時もある。
なので、あまりパンツパンツと期待しないでほしい。

関西人は話にオチをつけないと死ぬ生き物のように思われているけど、パンツを履かなくても死なないように、オチをつけなくても死なない。

私たちもぼんやりとその場の会話をやり過ごしたい時もあるので、過度な期待は止めてほしい。

とはいえ、話にオチがないのはパンツを履かずに人前に出ることであり、それはとっても恥ずかしいことなのだ。

私のnoteの下書きに残る「ノーパン状態」の文章たち。
早くパンツを履かせてあげたい。


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