
韓国映画『別れる決心』(2022)と藤原審爾「新宿警察ズベ公オカツ」(1969)
パク・チャヌクの傑作を見終えた2023年5月、最も印象に残ったのは主要人物である女・男・女、容疑者(女)に溺れる刑事(男)の妻(女)、とくに妻を刺身のツマ扱いにとどめない配置でした。ただ、それ以外にも気になるポイント目白押し。
容疑者女性が介護にたずさわっている非正規就労外国人-介護職における主要戦力が海外人材になっている日本から見てものすごく興味深い-設定、作中人物の食まわり描写に台湾ウイスキーKAVALANと並んで(たぶん)日本のお高め芋焼酎が映り込み、ちょっと前までならチャミスル一択だった韓国社会における飲酒文化の変容が記録されて云々。
そのあたりは直後の感想として書いたんですけど、宿題にしていたことがありまして。
いわく、監督自らが影響を公言しているマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー連作「マルティン・ベック・シリーズ」という警察小説。ではなく、これは藤原審爾の「新宿警察シリーズ」だよ、という持論を今日は書きたい。なお制作者本人の発言は無視するものとします。
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まず新宿警察シリーズの説明から始めないといけません。双葉文庫全4冊第1巻の裏表紙の紹介文はこんな感じ。
眠らない街・新宿。通りがかりに硫酸を浴びせかける連続事件が発生する。新宿署の刑事たちが奔走し、浮かんだ容疑者はある事件の関係者だった。犯人と刑事の、緊迫した攻防戦を描く「新宿警察」。
-事件を描いて街を描く。人を描いて心も描く。時に熱く、時に冷静に捜査をする刑事たちの群像。警察小説の原点にして警察小説の白眉。テレビドラマ化もされ、人気を博した傑作シリーズが堂々の復刊!
この双葉文庫版が品切れになって、電子書籍で全作品が網羅された(2017年)際のアンソロジスト、杉江松恋によるシリーズ全体の解説冒頭が以下。
(引用者注:1959年から1984年まで)
25年にわたり、主に月刊小説誌を中心に作品は書き続けられた。新宿署のエース・根来を中心とし、人情家の徳田老、根来の妹・登志子と婚約中の弟分・戸田、猪突猛進型のマル暴刑事・山辺、探偵作家志望で現代っ子の伊藤といった面々が毎回話を盛り立てる。後の刑事ドラマなどはこのシリーズが作った群像劇の形に大きな影響を受けている。
まとめますと、刑事を主人公にした短編小説シリーズで、事件解決ではなく人間を描くことが主眼。なにぶん昭和30年~50年が舞台なので「古い」部分はあるものの、いま読んでも心に触れるところは少なくない。
さて、ようやく短編「ズベ公オカツ」の話。
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ヒロインを形容する「ズベ公」の語源、諸説あり。
(1)ズベラ、ズボラに通じる新潟方言の罵言ズベを擬人化したもの
(2)ポルトガル語espadaの略で零点札を意味するトランプ用語スペタから
なんにせよbitchのことだろ、って理解になりがちで、別にそれはかまわないんですけど薮井克子のオカツはズベ公と呼んだらかわいそうなんですよ。本人が望んで男を誘ったわけではないのに行く先々で問題が生じ、結果として「ズベ公オカツ」においては殺人未遂犯として手配されているんだけど。
太字の部分、映画『別れる決心』ヒロインと重なりません?
それでね、映画でパク・ヘイルが演じた男性刑事の役まわりは短編小説においては根来刑事というシリーズの主人公なんですけどね、オカツを追って出向いた瀬戸内海の小島であっけなく再会してしまう。
「みんなあたしが帰ってることを知ってるわ。この島じゃなんでもみんな集って相談するのよ。帰った日に、みんなの前に、あたしよびだされて、わけを話したの。それで、ここへおいてもらえることになったの。お母さんが死んだら自首するっていう条件で」
「なるほど。しかし、おれのほうの恰好がつかんよ」
「ほら、あれ」
とオカツが、青い海の中の小さい船を指さした。
「定期船よ。明日の午後三時までは、帰ろうったって帰られないンだもん。島見物するよりほか、することないでしょう」
「それもそうだな」
それで、根来はオカツと並んで石段を下りていった。
この、刑事(男)と犯罪者(女)の関係性はむろん映画と小説とで違いますし、結末もまったくといっていいほど似ていない。そもそもパク・チャヌクがインタビューで
私はステレオタイプからの脱却に強い関心があります。「男性はこういうもの、女性はああいうもの」という決めつけや社会的イメージは、実際の個人には当てはまらないことが多い。にもかかわらず、現実世界ではステレオタイプが維持されつづけています。だからこそ、それらを脱却する人物を描きたいんです
と語っている地点に昭和44年の藤原審爾はいないわけで、その意味でもオカツ、これぞステレオタイプ。と見えなくもない。
……のですが、私がここまで22か月、宿題として抱えてきたぐらいには人間なんですよ、オカツも、根来も。俺たちだって笑っちゃうぐらいステレオティピカルな行動をとったりするじゃないですか。そのことによって「物語」の価値が減るケースをわれわれはあまりに多く、目にしているから毛嫌いするんだけど、減らないケースも稀には、ある。
センセーショナルな設定に男女を置いたあと、どうなるか。
それは架空の男女の自由意志に任せた・ように思えるパク・チャヌク作品と、文庫判にして22ページの短編小説、最大の共通点は
そこにいるのがまぎれもない人間で、もしかすると自分も忘れただけで前世あたりで同じ経験をしたことがあるのかも。というぐらいに、見終えた/読み終えたとき、彼の・彼女の鼓動を激しく感じる。
そこなんですよ。
photo: from IMDb