聖アンデレ(1-H) イエスの妻マグダラのマリア
イエスに妻がいたかという論点があります。ここでは「いた」という前提で話を進めます。
というのも、イエスたちの生きていた当時は、成人であっても結婚しない場合は、一人前の社会人と見做されず、批判の対象になりました。イエスは、生前さまざまな批判を浴びていますが、この点については批判されていません。このことから、結婚していた可能性が高い(すなわち、後代の人間が、配偶者のみ消して伝承した)と考えられます。
また、初期の文書『フィリポによる福音書』という、ヴァレンティヌス派キリスト教徒が伝えていた文書には、マグダラのマリアがイエスの妻(伴侶)と明記されています。
マグダラのマリアのプロフィール
マグダラのマリアは(カソリック教会では特に)非常に不幸な扱いを受けがちですが、非常に気丈な女性だったと思われます。
生没年は分かりません。
出身は、その名の通りマグダラ(Magdala)と思われます。ガリラヤ湖畔の都市で、今のミグダル(Migdal)と言われています。ミグダル・ヌナヤ(「魚の塔」の意味)や、タリケイア(ギリシャ語で「塩漬けの(魚)肉」の意味)と表現されることもあります。
姉にマルタ、弟にラザロがいたとされています。
(ヨハネ福音書11:1、11:5)
聖書では、別途で記載する通り、イエスの死と復活を見届けた証人として描かれています。この点を重視した人々(グノーシス主義者や、アッシジのフランチェスコを創始者とするフランチェスコ会という托鉢修道会など)は、マグダラのマリアを特に崇敬しています。
イエスの磔刑の後の足取りは、よくわかっていません。
フランスには、アレキサンドリア経由で南フランスのサント=マリー=ド=ラ=メール(正に「海のマリア」の意味)に着き、晩年は港町マルセイユの奥の山村であるサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ったのちにその一生を終え、遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボームに葬られたという伝説が残されています。(サン=マクシマン側はいまも遺骸を保持していると主張しています。一部はパリのマドレーヌ寺院に分骨されているとも言われます。これに関しては、同じくフランスのヴェズレーにあるサント=マドレーヌ大聖堂(世界遺産)が、遺骸(頭蓋骨)の移葬を受けたと主張しています。真相はよく分かりません。)また、南フランスには、他にも、レンヌ=ル=シャトーに、関連する伝説が残されているとされています。
他方、東方教会の方では、マグダラのマリアはトルコ西部のエフェソス(世界遺産にもなっている古代ギリシアのヘレニズム都市。後に聖パウロが活躍した場所)に埋葬され、その遺体は9世紀にコンスタンティノープルへ運ばれたと言い伝えています。
イエスとの出会い
いわゆる「マリアとマルタ」の話として知られている話です。お互いに一目ぼれだったのかも知れません。ヨハネ福音書の記載は、二人の出会いを描いたほほえましい話だったかも知れません。【 】内を補足しながら読んでみましょう。
イエスとの結婚
イエスの結婚は、以前にみた「カナの結婚」(ヨハネ福音書2:1~12)の話でしょう。母マリアとも和解するきっかけとなった、楽しく明るい奇跡が起きたとされるエピソードです。
布教活動の支援
マグダラのマリアは、イエスの旅に同行するようになります。
この記載では、マグダラのマリアは、イエス教団に入らず(またはメンバーとしては入れず)に、自己の財産を携行する同行者として、教団をサポートしていたとされています。こういった同行者たちが、イエス教団の活動費を支援したと考えられます。(もっとも、ルカ福音書の特徴の一つは、マグダラのマリアの地位を不当に貶めるように意図的な記載を多数設けていることです。従い、母マリアやマグダラのマリアが教団の中の一員として支援していた可能性についても留意しておきましょう。)教団の同行者には子どもたちもいたようです(マルコ福音書9:36など)。それなりに大所帯での移動だったことが分かります。
なお、イエスとの熱愛ぶりにあてられた弟子たちには、寂しい思いをした者もいたようです。
夫の死を前にして
次に登場するのは「ナルドの香油」のエピソードです。イエスたちが食事をしていると、マグダラのマリアが、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、食卓のイエスの頭に香油を注ぎかけ、足にぬり、自分の髪の毛でそれを拭いたため、香油の香りが家にいっぱいに広がったというものです(マルコ福音書14:3~9、マタイ福音書26:6~13、ヨハネ福音書12:1~8)。
このナルドというのは、おみなえし科の宿根草のことです。漢方でいう甘松香(かんしょうこう)。香料としては古くから知られており、王宮でも香料として使われていました。
この行動の意味について、イエスの認識を確認しましょう。
マグダラのマリアが、生きているイエスに対し、出来る限りの(とっておきの)葬式の用意をはじめたことについて、イエス本人は前向きに感謝の念をもって受け止めていることが分かります。
これは、イエスが、死ぬ覚悟をもってエルサレムに乗り込んでいくことが示された場面であり、神殿との対決を迎える直前のできごとです。
マグダラのマリアの念頭には、旧約聖書のエピソードがあったことでしょう。神殿の位置づけを巡ってモーセと対立して敗れた者たち(ダダン、アビラムとコラの一族)は、悲惨な最期を迎えています。
マグダラのマリアは、イエスが死ぬ覚悟でエルサレムに乗り込もうとしていること、イエスの計画が失敗した場合、イエスは死んでしまい、その亡骸さえ、どうなるか分からないことを覚悟していたのでしょう。その中には、ダダン、アビラムに従った者と同様、自分たちも亡くなることも覚悟の上だったことでしょう。だからこそ「明日、乗り込む」というタイミングで、イエスと神殿との対決の前に、何があっても看取る覚悟(または自分も冥府に落ちていく覚悟)で、泣きながらイエスの弔いの準備をしたのではないでしょうか?
イエスの葬式を自分なりに全うすることは、マグダラのマリア自身にとっても、自分の危険を顧みず、なにがあってもイエスの戦いに従っていくための覚悟を決める行為だったと思われます。
死と復活の証人として
マグダラのマリアの覚悟は、イエスが死に、そして復活するまでの彼女の立ち位置にも表れています。マグダラのマリアは、イエスの身に起きたことを粛々と看取っていきます。
(1) イエスの磔刑の立会人として
マグダラのマリアは、イエスの母マリア、その妹のマリアとともに見ていました。(マルコ福音書15:40~41、マタイ福音書27:55~56、ルカ福音書23:49、ヨハネ福音書19:25)
(2) イエスの埋葬の立会人として
マグダラのマリアは、イエスの母マリアとともに見届けました。
(マルコ福音書15:47、マタイ福音書27:61、ルカ福音書23:55。)
(3) イエスの復活の証人として
マグダラのマリアは、少なくともイエスの母マリアとともに復活に立ち会いました。そして、その復活を弟子たちに告げに行く役割も担いました(マルコ福音書16:1~11、マタイ福音書28:1~10、ルカ福音書24:1~11、ヨハネ福音書20:1~18)。
マグダラのマリアが、磔刑の時も復活の時もイエス・キリストを看取り見守り、そばにいて奇跡を体験した稀有な人物だということが分かります。
この間、ペテロが逃げ惑い、イエスのことを「知らない」「仲間ではない」と嘘をつき続けた(マルコ福音書14:52, 66~71、マタイ福音書26:29~74、ルカ福音書22:56~60、ヨハネ福音書18:25~27)ことと好対照をなしています。
そして、イエスのそばにい続けたマグダラのマリアが、イエスにとって特別な存在であったことは論を待たないと思われます。
東方教会などでの評価
マグダラのマリアは、東方教会(いわゆる「正教会」)においては「亜使徒」(使徒と同等の働きをした者)と呼ばれ、崇敬対象とされてきました。
西方教会での評価
これに対し、西方教会(カソリックやプロテスタントなど)では、マグダラのマリアは、ながらく不当に不遇な待遇を受けてきました。この不当な評価は、本人というよりは、イエス、そして聖母マリアに起因すると考えた方が良いようです。
使徒行伝に示されたキリスト者たるべき4つの条件というものがあります。
問題は「不品行」です。ローマ兵士と駆け落ちした母マリアと、その子で混血児であるイエスは、性的秩序を乱したという意味で「不品行」の象徴です。しかし、イエス死後に教団を引き継いだ原始教会は、イエスを不品行としたくないため「処女懐胎」という手法を生み出し、この問題を解決しようとしました。それでも「母マリア」そして「イエス本人」に対しての、ユダヤ人からの「不品行」という非難はなくなりません。
この解決を図ったのが、ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590~604)です。政治家からローマ教皇に転身して活躍した人物ですが、彼は、就任早々(591年)に、ベタニアのマリア、マグダラのマリア、そして「罪深い女」(ルカ福音書7:36~50)が同一人物で、元・娼婦であるという汚名を着せました。この認識が、西ヨーロッパで広まっていきます。
「元・娼婦にして、イエスに最も愛された、改悛の女性」というコンセプトは、文芸や絵画・彫刻などの分野で芸術家を大いに刺激し、マグダラのマリアは、この形で人びとに知られていきました。
このように母マリアへの批判をマグダラのマリアに向ける「操作」の結果、イエスや聖母マリアの聖性と慈愛が際立つとともに、マグダラのマリアとイエスの夫婦関係を表面上「消す」ことができました。カソリック教会にとっては都合が良かったことでしょう。
逆に言えば、濡れ衣のように汚名を着せられたことこそ、不品行の象徴と非難を浴びてきた母マリアやイエスと、マグダラのマリアとの近しい関係を示すものと言えるのかも知れません。
しかし、仮にマグダラのマリアが過去に「罪ある女」だったとしても、それは問題なのでしょうか。ペテロはイエスを裏切って逃げましたし、パウロは元々キリスト教の迫害者でイエスの弟子ステファノの殺害メンバーの一員でした。大切なことは「罪を犯さない」ことではなく「真摯な改悛。キリストへの信仰(または愛)」にあると考えるならば、イエスの死後に聖霊によってペテロや聖パウロは赦されたものとみなしつつ、他方で、生前のイエスに現に救いを与えられたマグダラのマリアを長きにわたって貶め続けたカソリック教会等の態度は、まったく是認できないものと言わざるを得ません。(逆説的に「イエスの妻」に不品行の疑いをかけることについて、やましさを感じていたとも言えるかも知れませんが。)
なお、カソリック教会は、2016年になり、ローマ教皇フランシスコ1世が「マグダラの聖マリアの祭儀が、今後は現在の記念日ではなく祝日(festum)の等級で一般ローマ暦に記入されるべき」と認めました(2016年6月3日典礼秘跡省教令Prot. N. 257/16)。これにより(すでに流布したイメージは払拭し得ないところでもありますが)マグダラのマリアは使徒と同様の扱いに”公式には”復権していることになってはいます。