養生行路
昭和から平成を経て令和に突入した現代ですら、その年数を合計してみれば、僅かに百と数年である。
その間に起こった物質的、精神的変容を顧みれば、総じて二百五十年前後という近世の中でもたらされた同様の変化が如何に驚異的なものであったかは、想像に|難くない。
江戸幕府が開闢してから百五十年も経つと、幕臣藩士たちの中からも特異な所論を有する者があらわれてくる。
かつては寧猛ねいもうで我武者羅でもあった武士たちは、戦の起こらぬ時代と共に牙を抜かれ、信義や勇名を求めるよりも平安と安泰、何より武家社会の基盤となる「家」の存続を第一と考えるようになり、その為に自らの保身と息災を重視するようにもなった。
それ故に、元禄を過ぎた辺りから健康と長生への渇望が高まり、儒学者貝原益軒かいばらえきけんが己の実体験に基き執筆した健康生活の指南書「養生訓」が世間に普及したのも、むべなるかなである。
意地の悪い見方をすれば、守りに入ったと受け取れなくもないが、武士の魂や信念を標榜したところで得るものも少なく、そのくせ失うのは己の命ばかりではない――家族や家来の生命生活までもが危ぶまれるとあっては、堅実な人生を選ぶのも已むなしと言えよう。
さて。
時は安永。
場所は備中の新見藩。
領内を南北に貫く高梁川たかはしがわの上流、普段ならば滅多に人の入らぬ山中の渓流に、しかし今日に限っては五人の男女がいた。
そのうち三人の男が、男女一組を取り囲む形となっている。
三人組のうち二人は羽織袴。残りの一人は着流し姿。
着流しは桑染の袷に角帯。日焼けした肌に、月代も碌に剃ってないところを見るに喪家の犬、牢人の類だろう。眉太く獅子鼻で、瞳に浮かぶ濁りは耽溺する酒によるものか。
黒塗り鞘の一刀のみを腰にぶっ刺しているあたりが特徴と言えなくもない。
その三人に相対し睨み合う若い男と、彼の背後に隠れる若い女は夫婦らしく、それぞれ羽織袴に小袖打掛の外出姿である。
「まだわからんのか、牧村」
三人組の一人、若輩の男が、相対する男に向かって怒声を上げた。他の二人も、抜刀こそしていないものの、怒りと苛立ちからいつ手を上げるかわかったようなものではない。
「わかっていないのはお前の方だろう、田所」
怒鳴った男――田所に言い返してから、牧村はもう一人の同僚、年配の重野の方へと顔を向ける。
「重野さん、あんただってそうだ。長誠様は、殿とは腹違いなれど思慮深く、新見のことを常に案じてくださる御方。年端もいかぬ御幼君の擁立など考えてはならぬ」
「それを決めるのは殿であろう」
「ならば、長誠様の家督相続に反対するよう内藤様に進言せよ、などと俺を脅すのは、如何なる理由あってのことか、説明してもらおうか」
「知れたこと。長誠様が政に目を向け、年貢の割合を四公六民に戻されてしまっては、我々の生活が立ち行かなくなるからよ」
重野の言葉に、しかし側に立つ牢人は頷くでもなく目を剥くでもなく、口を「へ」の字に曲げたまま、偶に黒塗り鞘の柄に左手を当てるのみ。
「何度でも言うぞ、牧村。先代の政富様は、それまで我が領内の取り決めとして行われてきた五公五民の年貢徴収を、四公六民に変えた。これにより民百姓は息を吹き返したかもしれんが、その煽りをくらって貧しくなったのは、我々家臣一同だったのだ。それが殿の治世に替わり、元の五公五民に戻るまでの間に、我々がどれだけ貧苦に苛まれてきたことか」
「重野さんの言う通りだ。牧村家は、政富様から目を掛けられていたからわからぬであろうが、当時の家臣の中には急な収入減で借金の返済が間に合わず、首を吊った者もいるのだ。この俺だって養子縁組の話が来なければ、冷や飯喰らいの次男坊は養えぬと生家を追い出されるところだったんだぞ」
「そこがおかしい。政富様の検見によれば、四公六民でも家臣一同に不足が起こりうる筈がないのだ。我々の間、否、上の人間が不正で過剰に受け取り、我々に少なく配分していたのであろう」
「では、それを誰に陳情すれば良かったのか。政富様か? 馬鹿な、我々の倹約が足りぬとお叱りを受けるだけだ。あの頃に艱難辛苦を舐め尽くしている我々は、年貢を四公六民に戻されるわけにはいかんのだ」
「重野さん。それで百姓がまた困窮したのでは、それこそ元の木阿弥でしょう」
「お前が百姓共の肩を持ちたい気持ちは、まあわかる」
田所が、嫌らしい笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「惚れこんで嫁にしたのが、庄屋の娘なのだからな」
牧村の背に隠れていた女房が、青ざめた顔をぱっと上げ、迷い無き亭主の横顔を見上げる。それに気付いたのか否か、牧村の顔面が赤黒さを増した。
「それは関係ない。俺は、このままでは百姓も我々も共に滅びると言っているのだ。だからこそ、長誠様の御手により立て直しが行われるべきなのだ」
「考え直せ、牧村」
言いながら、重野が三歩後ずさる。
「かどわかした貴様の女房に手を出さなかったのは、貴様の才と百姓からの人望を買い、仲間に引き込めと命じられたからだ。それが叶わぬならば」
「斬れ、と命じられておる」
重野の言葉を引き継ぎつつ、田所が腰の一刀を抜いた。
陽光受け煌めく白刃を前に、ひっと小さく悲鳴を上げた女房を巻き込むまいと、牧村もまた抜刀しながら前へと歩み出る。
「いやぁっ!」
気合と共に刀を振り上げ、斬りかかる田所。
しかし牧村はその一撃を左にかわしざま、己の右足を田所の袴に引っ掛ける。
「あっ」
前につんのめった田所は、砂利の上を無様に転がる。
「二人とも退いてください。仲間は斬りたくない」
「仲間でなければ、斬れるのだな?」
答えたのは重野でも田所でもなく、それまでだんまりを決め込んでいた牢人だった。
着流しの裾を捲り上げ、這う這うの体で重野たちの方へと逃げ戻る田所と入れ替わるように、前へ出ながら黒塗り鞘から抜刀する。
「儂ならば、縁もゆかりも無かろう。思う存分、打ち込んでみせよ」
剣を正眼に構えたまま不敵に笑う牢人に対し、牧村は愛刀を八相に構え、摺り足で間合いを測る。
重野と田所、女房の静が固唾を呑んで見守る中――
静寂を破ったのは、甲高い雉の鳴き声。
「だあっ!」
牧村渾身の一刀は牢人に下から弾き返され、がら空きとなった胴を、一歩踏み込んだ牢人の刀が薙ぐ。
「ぐあっ!」
刀を落とし血の流れ出る傷口に手を当て、苦悶の表情を浮かべながら半身を捩り、愛する妻の姿を顧みた牧村は、しかしそのまま砂利の上に倒れ伏す。
「ああっ!」
悲痛な叫びをあげる静。快哉こそ上げなかったものの、重野と田所は牢人の勝利に歓喜と安堵の息を吐く。
「一之助様!」
滂沱し夫の遺体に縋りつく静の背後に回り込んだ重野は、無言のまま抜いた刀で、その背中に一刀を浴びせた。
「あっ!」
もがき苦しむところへさらにもう一太刀浴びせ、夫婦共にその息の根が止まっていることを確かめてから、刀の血を拭い取った重野と牢人、そして田所の三人は烏滸がましくも二つの遺体に向けて合掌する。
「勿体ねぇことをしたもんだ。殺す前に味わっておきたかったんだがな、この身体」
一番に合掌を切り上げた牢人の呟きに、嫌悪の情を面には出さず重野は答える。
「仕方あるまい。下手に生かせば、いずれ揉めた際の証人になる。むしろ亭主の方こそ惜しいものよ。我々と手を組めば、領内の百姓共を手懐け牙を抜くのに役立っただろうに」
「死骸はどうするのだ?」
「このままにしておく。不義姦通を疑い、人目につかぬ場所で女房を詰っていた牧村が逆上し、女房を手に掛けてから己の愚行を恥じて自害したことにすれば良い」
「成程な。腹を斬ったことだし、丁度良い」
そう言って牢人が笑おうとしたところで、川の向こう岸に群生する葦が揺れた。
「間に合わなんだか!」
葦の中から飛び出してきたのは、旅装の武士だった。
濡羽色の打裂羽織に同色の野袴。黒鳶色の三角笠を被ったまま、流れの早い渓流を事も無げに渡ってきた旅人は、血塗れで倒れている牧村夫妻と重野ら三人の顔を交互に眺める。
「何事ですかな、これは」
問いながら三角笠を外す旅人。
笠の下からあらわれたのは、白髪混じりの頭に痩せこけた頬。
眼光は鶚みさごのように鋭く、鉤鼻の下には短く刈り込んだ口髭。
齢は四十を過ぎているだろうが、その佇まいからは例えようのない用心深さと狷介を醸し出している。
「見ての通りである。貴公は何者か」
「旅の者にござる。津山より新見へ向かう予定だったのが道に迷い、はてどうしたものか、新見はどちらの方角かなと悩んでいたところへ悲鳴を聞きつけ、推参した次第でござる……それで、見ての通りとは」
「見ての通りとは、見ての通りだ。女を攫い山奥まで逃げた挙句、自棄を起こして殺めた暴漢を、我々が粛清したに過ぎん」
「左様。身内の恥ゆえ、これ以上の詮索は無用。新見への道案内は我々がいたそう」
「それはおかしい」
穏便に事を済ませようとする三人に、旅人は待ったをかける。
彼の後を追うように、対岸の葦から飛び出し、たどたどしく川を渡る男までもが現れた。顔中を髭で覆い尽くしているが、尋常ではない量の荷を背負っているところを見るに、旅人の従者らしい。
「拙者は、まず男の悲鳴を聞きました。そして間髪置かず女の悲鳴。それから女の咽び泣く声が聞こえ、最後に女の悲鳴を聞きました。もしこの倒れている男が暴漢で、皆様方の仰る通りに彼を退治したのであれば、最初に上がるのは女の悲鳴、最後に上がるのは男の悲鳴でなければ辻褄が合いません。違いますかね」
重野は胸中で臍を噛んだ。
旅人の言う通りだ。牧村を暴漢に仕立て上げ、女殺しの罪により粛清したことにするならば、牧村の断末魔の後に女の悲鳴が上がるのは、どう考えてもおかしい。逆でなければならないのだ。
「こうして目撃した以上は、御領内で目付に報告しなければなりませんな。失礼ですが、皆様方のお名前を教えていただけますかな?」
「その必要はない。この件は我らの問題でござる。報告する必要はない」
「そうはいきますまい。現にこうして死人が出ているのですから、然るべきところに報告しなければ」
「報告は我々がいたす。貴公、お名前は?」
「鯖田大膳。鯖田流の祖にござる」
聞き覚えが無い。少なくとも西日本の大名や家老に、そのような苗字の人物がいた覚えは無い。
「鯖田殿。余計な詮索は御身の為にならぬ。早々に此処を立ち去るが宜よろしい」
「そうはいかんでしょう。いや、新見に辿り着いたら果たさねばならぬ用件が増えてしまった。厄介な」
「いい加減にしろっ」
堪忍袋の緒が切れたのか、それとも先程の斬り合いでの興奮が冷めやらぬのか、田所が怒声を上げながら抜刀した。
「失せろと言って立ち去らぬならば、痛い目を見るぞっ」
しかし鯖田は、眼前に突きつけられた刀の切っ先に怯みもせず、むしろ歓喜に近い笑みすら浮かべているではないか。
「ははあ、こいつは何か後ろ暗いところがあるな」
鯖田はそれまで礼儀正しかった態度を一変させ、田所を嘲笑いながら鯉口を切る。
牢人が、むぅと低く唸った。
「亀吉、用意しておけ」
背後に控える従者に命令しながら、刀を正眼に構えた鯖田の、それまでの態度からは微塵も感じられなかった威圧に、対峙する田所のみならず見守る重野すら圧倒される。
「いやあっ!」
その威圧を弾き返し、真っ直ぐ突きを繰り出す田所。
しかしその一撃を容易たやすく切っ先で払った鯖田は、すれ違いざまに田所の背中に一太刀、間を置かず返す刀で腰に一刀を浴びせる。
呆気なく倒れる田所を見て、重野は心胆から震え上がった。
強い。田所は勿論、牧村すら足元にも及ばない。
年期はともかく剣の腕前は田所にも劣る自分では、到底かなわない。
「面白い」
その重野の意を覚ったかのように、牢人が再び黒塗りの鞘から抜刀する。
「一人斬って五十両なら、二人斬れば百両だな。どうだ?」
「頼む」
金は、後で上の人間から借りるしかない。田所が斬られた以上、ここで鯖田の口を封じなければ、自分が田所殺しの嫌疑をかけられるかもしれぬのだ。
「鯖田とやら……次は俺が相手になろう」
眼前で青眼に構える牢人に対し、只ならぬ相手と察したのか、数歩後ずさった鯖田。
鶚の如く鋭い視線は、目の前の牢人から己の背後に控える従者へと移る。
「亀吉」
「万端です」
「よし」
上段に振り上げていた鯖田の両腕が左右に開き、刀を握る左手と無手の右手に分かれる。
二刀流――空いた右手で脇差を抜くのか。
そう推測した重野だが、次の瞬間にはあっと声を上げた。
ぴんと水平に伸ばした鯖田の右手に従者が乗せたもの。
点火済みの火縄銃。
大きさとしては短筒と呼ばれているものだろう。その名に違わず短いが、決して軽くはない筈のその銃を片手で軽々と振り構えた鯖田は、愕然とする牢人に狙いを定めて引き金を引く。
破裂音と共に、牢人が苦悶の表情を浮かべながら、弾丸が命中した肩を手で押さえる。
そこへ、銃を捨て剣を構え直した鯖田が容赦なく躍りかかった。
「ひ、卑怯! 卑怯なり!」
叫び罵る重野に、牢人への容赦無いとどめの一撃を浴びせた鯖田はゆらりと顔を向け、平然と嘯く。
「左様。言うなれば、これが鯖田流。卑怯と言われようが生き残る術を選ぶことこそが、我が流派よ」
親指の腹で口髭を撫でつつ、むしろ誇らしげな笑みを浮かべてから、逃げ出そうと背を向けた重野を追う鯖田。
「うぎゃあっ!」
因果応報、先程自分がした時と同様に、背中に一太刀浴びせられ倒れる重野。
「三対一、それも自分では勝てぬからと人任せにした奴が、他人を卑怯と罵るのか」
苦笑してから、牧村夫婦の遺体に駆け寄った鯖田は、おもむろに牧村一之助の懐に己の右手を突っ込んだ。
「亀吉、お前はそっちの三人を探れ。いいか、絶対に手掛かりを見つけ出せよ……こいつは久々の上玉だ!」
新見藩。
親藩である津山藩森家が失態を起こし処分を受けた影響で、その津山藩の支藩だった宮川藩関家が独立し立藩したという、特殊な経歴を持つ藩である。
現当主である政辰公の実父にして先代当主である関正富公は、暗愚と評された先々代当主により混乱していた藩政を建て直し、領内の法整備と文武教育の浸透を徹底させた名君として、近隣にその名を知られている。
かつて徳川家第八代将軍吉宗公は、武士階級の経済的困窮を解消せんと、それまでは四公六民であった直轄地の年貢配分を五公五民に変更した。
己と家臣の利になる政策である。新見藩を含めた諸藩もこれに倣い、次々と四公六民から五公五民に変更したのだが、正富公は当主の座に就いて以降、この配分を敢えて元の四公六民に戻していた。
三十八の若さで世を去った正富公の後を継いだのが、嗣子であり現当主でもある政辰公。御年わずか四歳で家督を継がざるを得なかった政辰公に政など行える筈もなく、その一切は先代から仕えていた家老らに一任されることとなった。
それから十四年の歳月が流れ、その間一度たりとも政に関われぬまま、政辰公は病により十八年の短い生涯を終えようとしている。
元々が病弱だったこともあり、嫡男どころか妻すら持たなかった政辰公がこのまま逝去した場合、跡目を継ぐのは、その異母兄にあたる関長誠になる。
幼少から明哲との評判高かった長誠だが、己の生母が正富公の側室だったこともあり、正室の子である政辰公に家督を譲り、自らは三十路を迎えた今でも部屋住み冷や飯喰らいの環境である。
母違いとはいえ兄が弟の家督を継ぐわけにはいかないので、養子縁組により名目上は政辰公の養子ということにして、相続が行われる筈である。
ところが最近になって、政辰公が元服した直後、奉公人の娘に手を付け男子が生まれていたことが発覚した。御年四歳――政辰公が家督を継いだ時と同じ年齢である。
政辰公に成り代わって政を執り仕切ってきた家来たちは、俄然色めき立った。自ら鞭を取り御領内の綱紀粛正を始めるであろう長誠よりも、この庶子を幼君として擁立した方が、これまでと同じ環境を継続していけるかもしれぬからである。
その一人であり反長誠派の筆頭でもある国家老の中橋頼母は、なんとしても長誠を退け、政辰公の庶子を新たな当主として迎えんと暗躍しており、反対派の同志を増やさんと日夜活動していた。
現在、中橋頼母には二人の娘がいる。長女は婿を取り身籠っているが、生まれたのが孫娘であった場合、政辰公の庶子と縁組させてしまえば、新当主の縁者として今以上の権勢を振るう事が出来るだろう。
その為に対抗馬である長誠派の国家老、内藤氏則の懐刀とも言うべき牧村一之助に目を付け、彼が寝返るよう工作せよと配下の重野と田所に命じたものの、未だに作戦の顛末てんまつについて報告が入らない。
屋敷で報告を待つだけの状態に不安と焦燥を隠し切れなくなった中橋が、二人に使つかいを出そうと決意して筆を取ったその時である。
「殿」
襖の奥から、聞き慣れた下人の声。
「鯖田大膳と名乗る老人が訪ねて参りました」
聞き覚えの無い名である。
「安藤邦親様からの紹介状を持参しております」
当主が代われども、新見藩にとってはかつての宗家に当たる津山松平家の家老である。
その紹介とあっては、無下には出来ない。
「見せよ」
簡潔にまとめると、紹介状に記された内容は以下である。
「鯖田大膳、または鯖田万利。奥州はさる大名の家老として、国家老と江戸家老を歴任するも、君臣の在り方について当主と諍いを起こし、家老職罷免のうえ放逐されたし。但し放逐の身とはいえ君臣間に怨讐無く、流浪の身なれど現在に於いても様々な恩恵を受ける者なり。現在は開闢したる己の流派を実践し広めんが為、全国行脚する身なり。武芸十八搬に秀で、特に小具足――小太刀や脇差と居合、砲術は皆伝。また学にも優れたるも頑迷有りと自ら語る。勇士なれば、手厚くもてなすよう願いたし」
奥州出身、かつ自分と同格の家老だった男、というのは興味がある。
「客間に通せ」
鯖田大膳――客間に案内された男の風貌は、実に堂々としたものだった。
旅路であるにもかかわらず月代を奇麗に剃り上げ、綻び一つ見当たらない吉岡染の裃。
鋭い眼光と口髭が少々粗野に見えなくもないが、礼儀を弁えた好人物という印象はある。
「鯖田大膳にござる」
膝を付き一礼するその姿にも、牢人特有の卑屈さや嫉妬による対抗心は微塵も感じられず、なぜこのような武士が主君に逆らって放逐されたのか、不思議に思えるほどである。
ただ一つ気になるのが、口髭だ。
当世では、髭を生やしてはならぬと禁止令が出ている。過去にはそれで処分された例もあるということで、今では髭を生やした侍など皆無といってよい。
自ら頑迷と認め放逐されたというのも、或いはこの髭が理由なのかもしれない。
「中橋頼母でござる。鯖田殿、このような辺境の地にようこそおいでくださった。如何せん、君臣共に野人の地故に、多少の不備やご無礼は御寛恕戴きたい」
「とんでもない。新見関家の御高名、わけても先代正富公の御明哲ぶりは、奥州暮らしの田夫野人の耳にも届いてござる。御当主の政辰公もまた賢者なれど、蒲柳の質にて長く患いがちという噂は、かねがね耳にしてございます」
「そこが、我々家臣一同の悩みの種でございましてな。殿に万一が起こったならば、家督を如何にすべきかと気が気ではござらぬ」
それで家臣が派閥争いをしているとは、中橋からは口が裂けても言えない。
大名家の動向を監視する大目付に知られようものなら、痛くもない腹を探られたうえに難癖をつけられ、関家改易の御咎めを受ける恐れもあるのだ。
「鯖田殿、当夜の宿はお決まりですかな。差し支えなければ当家にご宿泊なされては如何」
「お心遣い、大膳感謝の極みにございます。なれど所用により、今夜の宿は既に決まってございます」
「ならば、今宵は御一献」
「かたじけのうございます。されど残念ながら、禊の意味も含め、とある方より所用を申しつけられてございます故」
「禊?」
聞き慣れぬ言葉に驚いた中橋の視線が、開いたままの襖の奥に注がれる。
「これ、誰かおるのか?」
「某の弟子にございます」
「弟子?」
そういえば、紹介状には小具足と居合、砲術の達人と記されていた。
「左様。某に同行し、鯖田流の奥義玄妙を必ずや己のものにせんと、切磋琢磨の日々を送っている者にござる」
武芸者が、武者修行の一環として廻国の旅路につく際、その弟子が随従していたという話は、中橋も何度か耳にしたことがある。
しかし、泰平の時代だ。新見では武芸者など見かけなくなったし、当然ながらそれに随従する弟子を見たのも、今回が初である。
「丁度良い。亀吉、あれを」
振り返った鯖田の命令に従い、彼の弟子は一帖の折本を恭しく両手に抱えて客間に入り、鯖田に献上する。その恰好は袷に袴と簡素だが、顔中を覆うような髭面が、弟子という神妙な立場にそぐわない。
楊梅色の表紙を貼り付けた折本を、弟子亀吉から受け取り下がらせた鯖田は、嬉しそうにその表紙を指で撫で上げる。
「これが、鯖田流の玄妙でござる。実はこれこそが、恥ずかしながら某が主君を怒らせ流浪の身となった原因でもござる」
「ほう、主君を怒らせた原因」
縦が六寸半に幅四寸、厚さそれなりの折本に、中橋の視線が注がれる。己と同格の家老が当主と喧嘩し国を追い出されるような原因とは、一体如何なるものなのか。
「僭越ながら、御当主政辰公の長患い、同じ立場にあったこの大膳からすれば、大いに同情いたすところ」
折本を己の膝前に据えたまま、まるで中橋が己の主人であるかのように居ずまいを正し語り始める鯖田。
「某もまた、家老として領内でお仕えしておりました頃、主君の短命と御家の存続とを憂い、それ故に主君のあるべき姿について思索しておりました」
「ほう」
「江戸に於いても領内に於いても絶えず我が殿のご健康を気に掛け、如何にすれば長生を得、子孫の繁栄を全うできるであろうか。この大膳にとっては、それが生涯の課題とも言うべきものになり申した」
その気持ちは、中橋にも理解できないものではない。後継問題で新見領内が騒擾しているのも、元はと言えば政辰公が壮健かつ長命であり子沢山であれば、何事も起こらなかった筈なのだから。
ただ、これを本人に奏上するのは、さすがに難しい。
「しかし現実には障害多く、煩悶懊悩しながらも自学自習を続けた結果、某が辿り着いたのは、武士たる者の生き方や考え方、その心構えなるものが、もはや時代遅れの遺物に過ぎないという結論でござった」
「時代遅れ?」
突拍子もない結論に、中橋は仰天した。
「左様にござる。戦らしい戦も起こらず、もはや泰平となった世の中で必要とされるのは武芸学問ではなく健康、養生による長生であり、また危難を避け傷つかず人生を生きる為の知恵――術でござる。某はそれらを集めて編纂し、遍く世に広めることこそが天下万民の為であり、己の使命であると考える次第でござる」
「それが、お手元の折本でござるか?」
「仰る通り。某が作り上げた健康法にして処世術――言うなれば、鯖田流生存術を記したこの折本。某は是を、養生行路と名付けようか思案してござる。如何」
「それは」
如何も糞も無い。
主君の為、天下万民の為に己が命を奉じる事こそが、武士たる者の務めである。建前であろうが本音であろうが、この基盤は巌の如く頑丈で動かしようがない。
その武士が己の長生と保身に執着したのでは、本末転倒も甚だしい。
「拝見しても宜しいか?」
「勿論」
承認を得てから折本を手にした中橋は、表題の無い表紙をめくって文章に目を通す。
この書を述した経緯が語られていたが、その内容は今しがた鯖田本人の口から語られたものと寸豪の違いも無い。
鯖田流生存術の骨子は、諸子百家で言うところの荀子が唱えた性悪説に近い。心身共に健康に気を使うのは当然として、他人の善意や思い遣りに対しても、裏があるのではないかと常に警戒せよと説いている。
「国に余裕が生じると、当主は見栄と遊興に走る。この二つは国にとって怠慢より恐ろしい病である。早急に除くべし」
「当主は臣下の言葉を鵜吞みにせず、公の場以外でも監視を付け、常に彼らの動向を見逃してはならない。特に、地位ある者の会合を見逃しては身を亡ぼす」
この辺りは、まだ頷ける。
「当主は身を削るような努力や修行に励むより、ただひたすら養生し、屋敷に籠ってでも子孫を残すことが大事と考えよ。子を作って、初めて主と認められるのである」
「家督を譲り引退したならば、決して子を作ってはならない。御家騒動の原因になる事、火を見るよりも明らかである」
これは、思っていても言うべきではない。不興を買う程度で済めば温情である。
「諌言にしても、かなり手厳しいものがありますな、これは。疎まれたとしても仕方ないのでは」
「左様。某も殿に、己が生死は大勢の人間の命運を握っていることを自覚してくだされと諌言し、編纂中であったこの書を献上したところ、御覧の有り様でござる」
他人事のように嘯く鯖田を無視して、中橋は折本を読み続けるが、後半は目を通すだけでも嫌気がさしてきた。
「金と忠節の何れかを選ぶとすれば、金である。金は己が使った分だけ消えるが、忠節は当主の気分や他者の讒言だけでも淡雪の如く消え失せるからだ」
「利と欲は忠義と信念に勝る」
「元服直後の若者には、贅沢と浪費の味を覚えさせよ。仕事から逃げ出さなくなる」
「世の為人の為と思って動くな。全ては己の利益の為と思えば、困難な仕事でも自然と身体が動く」
「若人の意見を否定する前に、自分が若人だった頃を思い出せ」
「敵とは正面からぶつかって打倒するものではなく、懐柔してから牙を抜く対象のことである」
さすがに、ついていけない。
御公儀により発布された武家諸法度の、真逆を弁じたてる文まである。
「これは、あれですな」
全てに目を通したふりをしながら、中橋は尤もらしい感想を捻りだそうと、知恵を絞り記憶を手繰る。
「巷で評判の、養生訓のような書物ですな」
今から五十年以上前に、貝原益軒なる儒学者が記した健康指南書で、肉体のみならず精神面からの健康を指摘している点が共通していると言えなくもない。
「されど、内容は養生訓とは異なっておりますな。本来ならば情欲を抑え、己の善性に磨きをかけるという一般的な道徳規範とは、趣を異にしているのではござらぬかな?」
中橋の――言葉を選びながらの批判にも、しかし鯖田は微塵も引く気配を見せない。
「その道徳規範を作り上げた大学頭は、もはや昔の人間でござる。これから訪れるであろう新たな時代の価値観にはそぐわない、古い考え方でござる。もはや泰平、武士特有の武士たる価値観に合わせようとする者の方が、苦しむ時代になりつつあるのでござる」
最後のひと言は、僅かながらも中橋の心を揺り動かした。
頷けなくもない。武士の武士たる価値観に基づき、石高を上げる方法より年貢の比率に執着しているからこそ、関家家臣や百姓は困窮しているのではあるまいか。
「それに、某は養生訓を否定しているわけではござらぬ。ただ、記載内容を極端なまでに拡大解釈する輩が多い。例えば養生訓には、食欲を抑えよとあるが、無闇やたらに食べようとするのを控えよと論じているだけであり、粗食や断食を勧めているわけではござらん。それなのに禁欲や節制を美徳と勘違いするばかりか、嬉々として他者にまで禁欲を強要する。この書は、その様な輩への警告にもなるのでござる」
もし上梓されたら、そういう形になることは、あり得るかもしれない。
しかし、いずれにせよ奇書は奇書であることに変わりはないが。
「先程の亀吉は、この生存術を会得しながら実践しようと某に付き従っている者にござる。なに、会得したところで望みが栄華の日々という俗物。中橋様にお目通りさせるような男ではござらん」
それでは貴公は何者だというのか。
喉の辺りまで出かかった言葉を、中橋はどうにか堪えて呑み込む。
元は大名の家老であり、何より宗家の紹介を受けた男である。奇人であろうと無下には出来ない。
「ともあれ、この書は――」
「一冊五両」
遮った言葉の意味が解らず、中橋は目を丸くする。
「なんと仰られる」
「折本の値段でござる。これを最低二十冊、購入して戴きたい」
こんなものに、百両も出せというのか。
「これは酔狂な」
「理由がございましてな」
鯖田の口調が砕けたものに変わったように思えるのは、はたして中橋の気のせいか。
「先日、津山から此方へ向かう山中で、風変わりな追い剥ぎに遭いましてな」
「追い剥ぎ」
「左様。羽織袴の二人組に着流しが一人という、妙な組み合わせの追い剥ぎ共にござる。幸い、腕に少々覚えがあったので返り討ちにいたしたのでござるが――可哀そうに、夫婦らしき男女が既に殺害されておりましてな。身元を確かめようと、埋める前に全員の身を探ったところ、悪漢が腰にぶらさげていたのがこちらでござる」
そう言いながら鯖田が置いた根付ねつけを見て、またしても中橋は声を上げそうになった。
配下である重野の愛用品だ。
「追い剥ぎの持ち物にしては、なかなかの逸品。さては盗品かと城下にて持ち主を探し尋ね回ったところ、これと同じものをお持ちの方が関家家臣におられる聞き及び、もしやお困りではないかと、今夜にでも訪ねてみようと思った次第でござる」
「それについては心当たりがござる。某が本人に渡しておきましょう」
「それは有難い。それで、五つの土饅頭に念仏を唱えてやろうと、城下から現場まで坊主を駕籠で運んだのですが、思っていた以上に駄賃が掛かってしまいましてな。貴重な折本を金に換え、費用の足しにしようと思い至ったのでござる」
成程と、中橋は納得した。重野と田所は腕の立つ牢人を雇って牧村を討ち取ったものの、偶々居合わせた鯖田に斬り捨てられた、ということか。
牧村を味方に引き込めなかったのは如何にも惜しいが、これで政敵――長誠派の安藤は、爪牙を失ったも同然である。
「その念仏代、当方が出さねばなりませんかな」
「無償で、とは申しません」
鯖田の口調が、さらにぞんざいなものへと変わる。
「こちらは折本を一冊五両で買ってもらう。その代わり、牧村一之助殺害については、これ以上は追及しない――如何です?」
「何を仰っているのか、皆目見当がつきませんな」
「誤魔化しは通用しません」
腸を掴まれたかのような衝撃を受けながらも惚とぼけようとする中橋の態度に、鯖田は凶悪な笑みを浮かべる。
「城下で亡骸の身元を探っているうちに、色々と耳に入って来ましてな。誰と誰が対立し、誰の配下が可哀想な若夫婦の命を奪ったのか、こちらはちゃぁんと見当がついております。それと、指令状は読んだその場で処分するよう教育しておくべきでしたな」
中橋の背を、冷たいものが伝い落ちる。
「某には家老時代からの顔馴染みがおるのですが、今は御公儀の大目付という大層な役職に就いております。江戸にいるであろうその男に関家の現状、さらには家督相続による内輪揉めで死人まで出ているという内容の手紙を送れば、どうなるかぐらいはお察しいただけましょうな」
殺すしかない。
鯖田の脅しに屈しながらも、中橋は新たな障害の排除を決意した。
中橋頼母が差し向けた刺客は、悉ことごとく返り討ちに遭った。
強請られているとはいえ、鯖田は元大名の家老であり、且つ津山藩から紹介された名士でもある。罪を着せ処刑すれば忽ち津山藩にもその噂が流れ、関家の跡継ぎ問題に介入されかねない。それどころか大目付の耳に入ろうものなら、それこそ御家にどのような処分が下されるか、わかったようなものではない。
鯖田とその弟子が屋敷を出ると同時に、中橋は子飼いの密偵に二人の後をつけさせ、宿泊中の旅籠が判明すると、下人に命じて雇った無頼三人に襲撃させた。
その一部始終を、密偵はこう報告している。
「昨晩は寒ぅございましたので、部屋には火鉢が据えられておりました。子の刻辺りでございましょうか、機を伺っていた三人は、それまで雲隠れしていた月が顔を出すなり旅籠の戸をこじ開け乗り込んだのですが、ひと足早く目覚めていた弟子亀吉の野郎が三人に火鉢の灰を投げつけ、怯んだ隙に鯖田の居合い抜きで残らず斬られてしまいました。まったく電光石火の早業で、火鉢の灰を抜きにしても、まともに渡り合えたかどうか」
ならばと、次は腕の立つ刺客を放った。
酒に溺れた無頼で、槍の腕前だけなら新見随一とまで噂される牢人、岩田陣兵衛である。
召抱えを条件に鯖田を襲わせたのだが、これも失敗に終わった。
「墓参りのつもりか、重田様と田所様が葬られた山から下山した鯖田を、岩田様は七尺の素槍で田楽刺しにせんと襲い掛かりましたが、亀吉をほったらかしにしたのは不味かった。背負い荷物から杖に見せかけた短筒を取り出して点火し、逃げ回る鯖田に手渡したのでございます。あとはもう、鯖田が岩見様を撃ち殺すまで、あっという間でした」
城下での発砲ならば大事件だが、場所は山の麓だ。自分は撃っていない、猟師が熊か猪と見間違えたのだろうという言い訳が罷り通る。
密偵を目撃者として訴え出ようものなら、それこそ大目付の耳に入るだろう。
飛び道具には飛び道具、こちらも弓で物陰から狙い撃つことも考えたが、その為には鯖田がいつ何処を通行するのかまで把握していなければならないし、何より突き刺さった矢が致命傷になるかどうかも怪しい。狙い違わず急所に命中させるだけの技量を持った達人が新見に居るという噂は聞いたことが無いし、第一それを知っていたら、わざわざ牧村を山奥で討たせたりはしない。
多勢も強豪も不首尾となれば、飯風呂便所といった隙の生じ易い時を見計らって殺せる男を用意するべきである。
中橋の新たな計画は、実行前に潰された。
「鯖田のやつ、まるで隙を見せません。そりゃあ風呂や糞の最中は刀を抜けませんが、その間は常に亀吉が見張っているのです。逆に亀吉が同じことをする場合は鯖田が見張りに立っているんで、これまた付け込む隙がありませなんだ。彼奴等、師弟というより相棒の間柄に近ぅございます」
さらに困ったことには、襲撃が失敗する度に鯖田が中橋の屋敷を訪れ、折本を買うのか買わないのかと催促してくる。
「宿を替えねばならなくなってしまいましてな。いや、如何なる恨みか金品狙いか、就寝中に賊が三人も押し入ってきましたので返り討ちにしたまでは良かったのですが、弾みで火鉢を倒してしまいましてな。灰塗れになった畳の張替代を払え、もう来るなと追い出され、ほとほと困っている次第で」
「例の土饅頭を供養に行ったのですが、帰路で亀吉の奴が斜面で足を踏み外しましてな。命と身体に別状はございませんでしたが、蓄えを詰め込んだ財布を落としてしまいまして」
よくもまあ、思いつきの嘘八百を並べ立てられるものだ。
御家騒動になるやもしれぬ話を広められたくはないのだから、大人しく金を払うしかないのだが、手持ちが少ないのでしばらく待ってくれと何度も頭を下げては追い返している。
こちらの差し金であることは、鯖田もとうに見抜いているらしい。
報復とばかりに、『養生行路』の値を吊り上げてきた。
一冊五両が十両、十両が十五両に値上がりし、それに合わせるかのように鯖田の態度も図々しいものに変わっている。
容貌は老域に達しつつある鯖田だが、若い頃は剣術修行に明け暮れていたそうで、その腕前はまるで衰えを見せない。剣術の弟子ではないとはいえ、お互いの身辺警護を行っている以上、亀吉も剣術の指導は受けていると見るべきである。
これまでにも似たような手口を使い、路銀を稼ぎつつ修羅場を渡り歩き続けてきた鯖田であれば、これまで中橋が立てた作戦も予測済みで、既に対策が立てられていたのかもしれない。
もはや、大人しく金を差し出すしかないのか。
中橋が観念しかけたところで、鯖田に殺された田所の弟――田所加右衛門が、小柄な老人を引き連れ屋敷を訪れた。
「中橋様。お探しの人物を連れて参りました」
殺された兄の仇を討ちたいと歯噛みしていたところを仲間に引き込んだのだが、どうやら加右衛門には仕事の内容が理解できなかったらしい。
「儂が探せと命じたのは、鯖田を殺せそうな万夫不当の豪傑である。足腰立たぬ老人を連れてきてどうするのだ」
老人は身の丈四尺半。利休帽子に十徳と身なりは上品だが、鯖田に太刀打ちできるとは、とても思えない。中橋が飛ばした中傷を不快と受け取らないのか、老人は野原で遊ぶ幼児を見守るかのような笑顔のままである。
「いや、拙者も同様に思っていたのですが……この爺、実に意外な手を講じてきたもので」
不服そうな加右衛門とは対照的に、推薦された当人は、笑顔のまま中橋にお辞儀をした。
「その方、名は?」
「端山粗哲と申します。備前の山中にて医者をやっております」
訝しげに問う中橋に相対しても笑みを崩さないあたり、かえって不気味でさえある。
「山中で医者とな」
「山に入っては薬の素を採り、それを煎じて城下で売り歩いております」
「つまりは薬売りか」
それが、鯖田暗殺の手段になり得るのか。
そう尋ねようとした中橋の脳裏に、天啓の如くある考えが閃く。
「毒殺か」
「ご明察であらせられます」
「出来るのか」
古くは仙台伊達家、近くは加賀前田家での御家騒動に、殺害目的で毒が使われたという話も聞かないではない。
ただし――成功したという話は聞いたことがない。
伊達家で毒殺されたのは、乳母の子だという者もいれば毒見役だという者もあり、どうにも判然としないし、狙われた幼君は生き残っている。
前田家に至っては、湯が臭気を発していたので毒を盛られたのではないかと騒いだだけで、実際に毒であったという証拠すら無いのである。
「上手くいった話など、聞いたことが無いのだが」
「上手く毒殺した話など、誰が口外いたしましょうや。巷間に流布しているものは、失敗したからこそ言い広められておるのでございます」
言われてみれば、頷けなくもない理屈である。
「そして失敗したものは、須らく使用した毒に問題があるのでございます。無味、無臭、無色であることが、良い毒の条件にございます」
「あるのか、その様な毒が」
「ございます。とはいえ、それに鯖田大膳が引っ掛かるかどうかは別問題。ここは、むしろ鯖田が自ずから手を出す毒を用いるべきかと」
狷介な鯖田が、そう易々と引っ掛かるものだろうか。
「斑猫を使います」
「斑猫か。有名な毒であるが、あれで人が死んだという話は一度たりとも聞いたことが無いのだが」
「当然でございましょう」
粗哲は穏やかな笑顔のまま同意する。
「巷間で毒と信じられている、派手な鎧を着込んだ斑猫、またの名をミチオシエ。この虫けらは、実は毒ではございませぬ。毒となる本物の斑猫は、赤頭黒地に黄の縦筋が付いた地味な虫にございます。これを生きたまま捕らえて天日で干し、磨り潰して粉にしたものを使います」
「効くのか」
「効果覿面。一刻と経たず吐血して悶え苦しみ、やがて事切れます」
「それを鯖田に呑ませれば良いのだな」
問題は、如何にして口中に放り込むか、だ。警戒心の塊のような男である。こちらが用意した酒や食事には箸もつけないであろうし、旅籠の炊事場に忍び込んで毒を仕込むのも難しい。
「それについて、一つ策がございます。聞けば鯖田は人一倍、過敏なまでに養生と健康に気を使うのだそうで」
健康法を実践する為に、旅を続けているような男である。
「ならば、漢方にも精通してございましょう。斑猫と同じく虫類で、九香虫という虫がおります。これを熱湯で煮殺してから乾燥させ、そのまま粉にして呑むか飴に練り込んで服用すれば、老いと眼の衰えに効くと言われております。この九香虫と偽って斑猫を差し出せば、鯖田は必ずや自ずから必殺の毒を呑むことでございましょう」
「そう上手く事が運ぶだろうか」
「それでも鯖田が躊躇するようであれば、畏れながら中橋様がその場で半分ほど呑んで見せればようございます」
とんでもないことを言い出した粗哲に、中橋は仰天する。
「それでは、儂も血を吐いて死んでしまうではないか」
「心配ご無用。斑猫は、呑む前と後に一度ずつ、それぞれ別種の毒消しを服用することで、毒の効き目を消し去ることが出来まする。先に呑む方が効果を薄め、後に呑む方が血を腹中で便に変えます。しかし後者は毒でもあり、事前に毒消しと斑猫を呑んでいなければ、逆に腸を焼くことになります」
「それも、用意できるのか」
「材料は揃えてございますが、粉にしてすぐその場で呑まなければ効き目は出ませぬ。従って、鯖田に斑猫を呑ませるその時は、私を部屋の外にでも隠して、すぐにでも薬を用意できるようにして戴きとうございます」
確かに、効果覿面だった。
鯖田が斃れているのは、中橋の屋敷の離れにある茶室。
構造として四畳半が基本の茶室は、中橋と鯖田の二人が入っただけでも十分に狭く、しかも今はその一畳を占拠するかのように、鯖田の身体がうつ伏せに倒れ伏している。
まだ斑猫を呑まず生きていた時の鯖田は、身を屈めて躙り口をくぐるなり、愛刀を壁に立て掛けてから、茶を点てる中橋の前に膝をついた。
「茶を戴きに参上したわけではないということぐらいは、おわかりでしょう」
初めて面会した時には折り目正しかった鯖田も、今では縞の小袖に榛摺の羽織、悪漢白波の如く粗野な振舞を見せる。
「昨日も、無頼二人に襲われましてな」
当然、中橋が雇った刺客であり、密偵からの報告も受けている。
「槍持ちの長谷部と剣士の茂田の二人組でございますが、健康には散歩が第一と宿を出た鯖田と亀吉を追い、御屋敷の竹垣辺りで襲い掛かりました。長谷部は抜刀した鯖田の胸を刺し貫かんと、目にも止まらぬ速さの突きを繰り出したのですが、刹那に身を伏せ頭上にかわした鯖田は気合一閃、仰向けに寝転がったまま槍の穂先を切り落としてしまいました。続いて仰天する長谷部の足に斬りつけ傷を負わせた鯖田は穂先を拾い上げ、同じく自分に斬りかかろうとする茂田に投げつけたところ喉笛に命中。すかさず立ち上がって、二人にとどめの一撃を浴びせたのでございます」
無法な商売を続け修羅場を潜り抜けていくうちに身についた、度胸と経験の賜物だろう。
「僥倖にも難を逃れたものの、刀は刃毀れ、服は泥だらけと散々な目に遭ってしまいました。お陰で今は、貸衣装に借り物の刀でございます」
「それは災難でございましたな」
「そういうわけでして、刀の研ぎ代やら衣装代やらで、また金が入用になりましてな。どうあっても、今日明日辺りには購入して戴かなければ、と思いまして」
「一冊につき十五両、二十冊でございましたな」
「二十両。一冊につき二十両でござる」
また値上がりした。
「そこを半額、十両にまけていただけませんかな」
「ほう」
鯖田の面には、値を半額にされた怒りよりも、買い取る決意を見せた中橋への驚きの方が、色濃く表れていた。
「購入していただける、ということですかな?」
「値切るなど、商人のような真似はしたくないが、儂一人で四百両は、さすがに荷が重い。そうかといって、養生指南に二十両も出せるほど裕福な知人一人ずつに声を掛けていたのでは、何年かかるかわかったようなものではない。中橋家の家財を検めてみたところ、二百両までならば、どうにか捻出できるのであるが」
弁解しながら、風炉の側に置いておいた薬箱から薬包紙を取り出し、恭しく開封する。
「どこか、お身体の具合でも?」
目論見通り、鯖田が薬包紙に目を向けてきた。
「なに、行商人から買い求めた和漢薬でござる。九香虫というのだそうな」
「九香虫」
鯖田の驚く顔を見たのは、これが初めてである。
「あれは、我が神州にはおらぬ虫。その行商人に欺かれたのではありませんかな」
「いや間違えた。行商人から買ったのは別の薬だ。この九香虫は、知人からの戴きものにござる」
粗哲はそこまで説明しなかった。尤も、行商人だの知人だのというのは中橋の思いつきなのだから、粗哲を責めるのは筋違いではあるのだが。
「その九香虫をですな、日干しにしてから薬研で粉にして、同じく粉にした芍薬や肉桂と混ぜ合わせたのが、こちらでござる。服すれば滋養と老化抑制、さらには血行と眼病に効くのだそうで」
すべて、粗哲からの受け入りである。
「効き目の程は、如何様でございますかな」
「まだ服し始めたばかりではあるものの、節々の痛みは消えたような気がいたしますな」
「それは羨ましい話ですなぁ」
作り笑いを浮かべる鯖田の視線が、ちらりちらりと薬包紙に移る。
「宜しければ、一服お分けいたしましょうか」
「いや、それは」
遠慮ではなく、毒ではないかと疑っているのだろう。
「戴いた量が過分でございましてな」
引っ掛かったと内心でほくそ笑みながら、中橋は薬箱から薬包紙をもう一包み取り出し、鯖田の眼前で二服分を一つに混ぜ合わせる。
「これを半分、儂がこの場で呑みます。何も起こらなければ、残り半分を呑んでいただけますかな」
毒を薄める薬は、とうに服している。
用心深い鯖田も、老化抑制と眼病効果には抗えなかったらしい。
中橋の容態に変化がないことを確認してから、斑猫を白湯でゆっくりと飲み下した鯖田が口から鮮血を溢れさせ悶死したのは、長誠派の内藤が牧村夫妻の失踪に疑念を持ち始めている、という話をしていた頃だった。
苦悶の表情を浮かべたまま事切れている鯖田の死に顔を覗き込んだ中橋は、その視線を畳の上の血溜まりに移す。
これだけの血を吐いたのでは、まず助かるまい。
同時に、己の身にも同様の死が訪れつつあることを実感し、即座に給仕口を開け身を乗り出し、表で待機している粗哲を呼んだ。
「毒消しを作れ、早くっ!」
「人の倒れる音が聞こえた時点で、用意してございます」
粗哲が差し出した薬包紙を奪い取り、大口を開けて呑み込むなり矢継ぎ早に白湯を流し込んだところで、中橋は漸く己の魂が現世に舞い戻ってきた事を実感する。
死にたくない。少なくとも鯖田のような死に様だけは、嫌だ。
「中橋様、もう一杯お水を飲みなされ。その方が、薬の効き目が宜しゅうございます」
茶室に入ってきた粗哲から土瓶を受け取った中橋は、中の水を残らず飲み干してから、斃れた鯖田の死体に改めて目を向けた。
「呆気ないものだな、人の死というものは」
殺害した本人であるにもかかわらず、他人事のような感想を漏らした中橋の視線は、鯖田から粗哲へと移動する。
「これで、牧村一之助と妻お静殺しの真相は闇の中、でございますな」
「そうだな。しかし、用心には用心を重ねよ、とも言う――田所」
中橋は、粗哲の後を追うように――そして逃げ道を塞ぐように――茶室に入ってきた、田所加右衛門に声を掛ける。
「この爺、生きていては鯖田の同類となる恐れがある。始末せよ」
ひぇっ、と粗哲が悲鳴を上げた。
真実を知る者は、少ない方が良い。屋敷内にいるであろう亀吉も、狼藉者として屋敷内の配下が一斉に襲い掛かれば、討ち取るのは容易であろう。
穏やかな表情一転、恐れおののく粗哲の前に立ちはだかった加右衛門は、ゆっくりと刀の柄に手を伸ばす。
「止めときな」
声は、聞こえてくる筈のない場所から聞こえてきた。
二度と耳にする筈はずのない声の主――二度と声を発する筈のない男が起き上がる。
「四畳半だ。刀を振り回したところで、壁や柱を傷つけるだけだぜ」
「鯖田大膳!」
斑猫の毒が効かなかったとでもいうのか。
鯖田は、何事も無かったかのように薄ら笑いまで浮かべているではないか。
「おのれっ!」
筋書き通りならば死んでいなければならぬ、兄の仇である。
ならば己が手で本懐を果たさんと刀を振り上げた加右衛門だが、その切っ先が低い天井に突き刺さり、間の抜けた声を上げる。
「あっ」
隙だらけである。鯖田が見逃す筈がない。
刹那に引き抜かれた脇差が加右衛門の胴を薙ぎ、のけぞったところを首筋にとどめの一撃が打ち込まれた。
呻き声も上げず倒れる加右衛門を凝視する中橋の脳裏に、紹介状の一文が浮かび上がる。
「特に小具足――小太刀や脇差と居合、砲術は皆伝」
まさに電光石火の早業だ。
「なぜ、くたばらない」
胸中の疑問をそっくりそのまま吐き捨てた中橋に向かって、口元と口髭を鮮血に染めながら、にぃっと笑う鯖田。
「死ぬような目に遭っていないからよ」
「口から血を吐いたではないか。それも大量に」
「血の正体は、これよ」
鯖田が左の袖口をぶらぶらと振ると、びしゃりという音と共に袋のようなものが畳の上に叩きつけられた。
「山犬の腸に、獣の血を仕込んでおいたのだ。こいつを隠した左手を口に当て噛み千切れば、忽ち辺りは血の海って寸法さ。亀吉って奴は見た目と違って手先が器用でな。素材と道具があれば、こういう小道具を作り上げるのも朝飯前という男なのさ」
そういえば――と中橋は、岩田が鯖田に襲い掛かった時の報告内容を思い返した。
山に入った理由は墓参りなどではなく、この血袋を作り上げるための獣狩りだったのか。
しかし、どうにも腑に落ちない。
「馬鹿な。そんなものを持っていたならば、生臭さですぐ気づくはずだ」
「あんたが一時的に、嗅ぎ分ける力を失っていたということさ。麻痺というらしい」
「何故、いつ失ったというのだ」
「毒を薄める薬と称して、麻痺する薬を呑ませれば、わけない」
「あっ!」
中橋は、そこでようやく毒殺計画の瑕疵――根幹に至る問題に気づいた。
鯖田が斑猫の毒で死ななかったのは何故か。
毒ではなかったからだ。
毒ではないものを毒と偽ったのは誰か。
力で斃せぬならば毒殺してしまえと唆してきたのは誰か。
医者の――端山粗哲。
当人は、いつの間にか鯖田の背後に隠れていた。
最初から、手を組んでいたというのか。
「何故」
粗哲の住居は、備中の山村と聞いた。
金は、まだ渡していない。
鯖田と手を組む理由が、どこにあるというのだ。
「粗哲さんはな」
足元で屈みこんで嗚咽する医者に代わり、中橋を睨みつけながら語る鯖田。
「牧村一之助の細君、お静さんの父親だ」
まさかの縁故に愕然とする中橋を見下しながら、鯖田は言葉を続ける。
「あんたの手下――重野らを斬った時、この件には裏で糸を操っている奴がいると踏んだんだ。そこで全員の身元を割り出してから、まずは粗哲さんに二人の死と、誰の差し金によるものかも伝えた。粗哲さんも、婿からの手紙で御家の内情を打ち明けられ、万一の場合があるかもしれぬと覚悟はしていたものの、最愛の娘までもが巻き添えで殺されるとは思わなかったそうだ。仇を討ちたい、事の発端となった黒幕を殺してやりたいと泣いて訴えてきたもんだから、俺はすぐに助太刀を決めたね」
目の前で咽び泣く小柄な老骨が、如何にして武家相手に仇を討とうと、命を奪おうというのか。現に刃物も出さず、飛び掛かろうともしないではないか。
否。
「ここまでは、筋書き通りに事が運んでいる」
否。
「中橋さん、最初にあんたに呑ませた薬は、臭いがわからなくなる薬。次が、偽物の毒薬。では、毒消しと信じて今しがた飲んだ薬、それとあんたが水と信じて飲み干した、土瓶の中身の正体は――」
その言葉が終わらぬうちに。
給仕口から外へと飛び出した中橋は、己の喉に指を入れて何度も嘔吐を繰り返す。
死にたくない。生き延びたい。
演技だったとはいえ、鯖田の無残な死に様を見せられては死の恐怖――生への執着は、今や何ものにも替え難い宝となっている。
「ご家老様」
吐けるだけの物を吐き出してなお、見苦しいほど何度もえずく中橋に声を掛けたのは、他ならぬ端山粗哲その人。
その両眼には、依然として流した涙の痕が残っている。
「ここに、毒消しの丸薬がございます」
蹲る中橋から数歩の距離を置いて立つ粗哲は、右手に掲げた印籠を左右に振る。
中でからからと音を立てているのが、その丸薬なのか。
「儂の仇討は、ここまでにございます。如何に娘と婿の憎き仇とはいえ、自らの手で人を殺めるまでの覚悟、この粗哲にはございませぬ。娘と婿殿の恨みは、ご家老様の恐怖と絶望、そして配下の方々の血で、十分に雪いだことにさせていただきとうございます。この丸薬を服せば、しばらく体調を崩すだけで元の生活に戻ること請け合いにございます」
「おおっ」
「ただ」
医者の背後に救世観音の御姿を垣間見た中橋だが、その喜びに冷や水をぶっかけるかの如く、粗哲の言葉は続く。
「此度の仇討にご協力いただいた鯖田大膳殿に、約束の御礼を支払わなければならぬのでございますが、あいにく儂には金品の貯えが無いのでございまして」
「そういうわけで」
申し訳なさそうに呟いた粗哲から印籠を受け取った鯖田は、口髭を撫でながらゆっくりと中橋に近づく。
「さて……ご家老様、この毒消しに千両出せますかな?」
(了)