月代に乗せた申し訳程度の貧相な髷を、相手に検分させるかのように深々と座礼する伊坂伊右エ門の言葉に、岡田雄之助数近は、年相応に刻み込まれた顔の皺の数をさらに増やした。 「肝煎?」 すかさず背後に控えていた従者が膝を進め、彼に耳打ちする。 (庄屋のことにございます) (ああ、片田舎では庄屋をそう呼ぶのか) 腑に落ちた岡田は居ずまいを正し、咳払い一つしてから改めて宣言した。 「面を上げい」 言われて上体を起こした伊右エ門の容貌から察する年齢は、自分とそう変わら
むかし むかし。 あるところに えをかくのが じょうずな おとこが おりました。 おとこは みやこでいちばんの えかきとなり あれをかいてくれ これをかいてくれと たのまれておりました。 あるひ えかきのやしきに ひとりのろうじんが やってきました。 「りゅうの えを かいてくれんかね」 (こんなじいさんに おれのえが わかるのかな) そうおもいながらも えかきは りゅうのえを かきあげました。 すると ろうじんは 「わしにも えを かかせてく
令和5年の8月5日。 午前5時から5時半30分に掛けて。 宮城県仙台市の中心部である仙台駅周辺にて、国の特別天然記念物ニホンカモシカを目撃したという報告が入った。 報告は、合わせて3件。 最初は仙台市青葉区一番町一丁目で目撃され、次いで青葉区五橋で2回目撃されている。 目撃された2ヶ所間の距離は1キロメートルと離れていないので、ほぼ同個体であろうと考えられている。 おそらくは、記録破りの猛暑で主食だった植物が枯れ、餌を求めて出てきたのだろう。五橋には、木々が繁茂
宝暦の大飢饉といえば、寛永、享保、天明、天保と、いわゆる「江戸四大飢饉」に比べれば規模が小さく軽視されがちではあるが、しかし土地によっては毎年のように起こる洪水と冷害による不作、飢饉に歩調を揃えるかのように蔓延した疫病により二万人以上の死者を出した忌むべき天災でもある。微々たる収穫すら年貢として搾り取られたある村などは、冬に雪中を掘り、冷たさで感覚を失った指先でつかみ出した草の根を齧る以外に生き残る道は無く、それでも田畑を耕す者が死に絶え、荒廃するがままに任せるしかなくなっ
「ほしくびぃ?」 あまりにも突拍子の無い鬼平の言葉に、我知らず頓狂な声を上げてしまった私の口を、鬼平が咄嗟に両手で塞ぐ。 「馬鹿か、あんたは。村の連中に聞かれたらどうする」 与太話を聞かれたところで、どうなるものでもないとは思うが、それでも鬼平の権幕と威圧に押された私は、声を低くして彼に尋ねた。 「何を言い出すんだ、君は。ここは日本だぞ。干し首なんかあるわけないじゃないか」 半分馬鹿にしたような口調で返す私の脳裏に浮かび上がった、ホラー作家としての干し首に関する雑多な知
陽光差し込まぬ見通しの悪い森の中を、それでも今は生い茂る木々を掻き分け、僅かな隙間をすり抜けながら、ただひたすらに歩き続けるしかない。 傍から見れば遭難しているようにしか見えないだろうし、タータンチェックの長袖シャツにストレッチパンツ、マウンテンパーカーに登山靴、迷彩柄のリュックに登山帽と登山家さながらの重装備で山中を歩き回っている人間が、よもや物書き執筆を本業にしているとは、誰も思うまい。 私は、世間のごく一部では「椀留有無」というペンネームで知られている、作家である
ギリシャ神話は口承――即ち民間伝承として、古代ギリシャの時代から連綿と受け継がれてきた神話の一つであり、今日では欧州はおろか世界中に広く伝播した神話でもある。 信仰されているかどうかは別として。 ギリシャ神話の創生は非常に古く、その起源はおよそ紀元前十五世紀にまで遡ると言われている。 当時の言葉で「アオイドス」と呼ばれていた吟遊詩人たちが、彫塑しながら語り継いできたのであろう物語のうち、現存している中で有名な作品が、トロイア戦争を題材にしたホメーロスの『イーリア
昨晩まで降り続いた長雨も、ようやくひと段落着いたのか、雲間から顔を出した陽光が辰の背中を照らし暖める。 また雨雲が天を覆い再び振り出さないうちに急いで山へ入り、採れるものを取っておかねば、冬を越せるかどうかも怪しい。 辰は一応自分の田畑を持つ百姓の身分ではあるのだが、若くして両親が相次いで病死したことで働き手が彼しかいなくなり、また土地柄故か天候不順により安定した収穫が期待できないため、耕作中でも時間を作っては村長の所有する山に入り、山菜や茸を採取しては金に換えて、
江戸時代――徳川政権下において、「お金」といえば誰しも小判や文銭、即ち貨幣を思い浮かべるだろう。 実際には、「藩札」とも呼ばれる条件付きの兌換紙幣「銀札」が発行されていたことは、あまり知られていない。 徳川政権下の貨幣鋳造に関する権限は、須く幕府の支配下にあった。 大判小判や一分金判、一朱金判の鋳造に用いられる金は佐渡や甲州、駿河や奥州の金山から産出された物が主流であった。 また銀の鋳造も、日本各地で幕府の認定を受けた鋳造業者たちを集めた銀座で行われた。現在も東京
封建時代の女性は弱かった。 力が弱かったというのもあるが、それ以上に社会的地位が低かった。 女の独り身で真っ当に稼ごうとするならば、日がな一日商品を売り歩く過酷な肉体労働か、そうでなければ――いかがわしい仕事しか選べなかったのが当たり前の時代だ。 嫁ぐにしても、花嫁修業と称して奉公に出されたところで、待っているのは過酷な下働きの日々。 夫婦となってその苦境から抜け出せば抜け出したところで、炊事洗濯掃除子育ての一切を任されるだけでなく、夫の仕事を手伝い隣近所と諍
鬼神も成す術無く退散するであろう酷寒の雪景色すら、今の佐吉の昂りを抑えるまでには至らなかった。 むしろ一面を覆う白雪が、降りそそぐ陽光の悉くを反射し、これでは目が潰れてしまうのではないかと気に掛けてしまうほどの眩さが、佐吉の興奮をさらに掻き立てている。 聳え立つ樺の大木の枝上に立ちながら、それまで首に巻いていた鳶色の襟巻をぐるぐると顔に重ね巻きし、僅かな隙間から白銀の雪景色を眺望する。 この豪雪の中に埋められようとも爆発し、周辺を吹き飛ばすほどの破壊力を有する新たな火
男の人生には様々な出会いと別れがあり、その繰り返しを経て精神的に成長するものである。 だがここに、出会いと別れを繰り返したところで微塵も成長せず、別れの挨拶代わりに平手打ちを食らう男がいた。 「くっそぉ……お芳の奴、ちょっと他の女に声かけたぐらいで引っぱたくこたぁねぇだろうよ」 陽もまだ昇りかけという明け方に、細い女の手形を左頬に残した伸子売りの三吉は、ぶつくさと恋人への恨み言を絶えず口にしながら、寝床である裏長屋へと続く通り道を闊歩していた。 三吉がお芳に平
煮やっこ。 固めの木綿豆腐を小鍋で煮て、醤油と味醂とかつお節の出汁で味を付けただけの料理である。 絹ごし豆腐のつるんとした舌触りも悪くはないが、やはり煮物焼き物には木綿豆腐であろうと、目鬘売りの猪松は考えている。懐に余裕があれば卵を落としたいところだが、卵一個は蕎麦一杯よりも高くつくので、余程稼いだ日でない限り手が出せない。 一丁丸ごとを賽の目状に切って濃いめの味付けをするのが猪松の好みで、これだけで飯が五合は喰える。 豆腐で四合、残りの一合は鍋に放り込んで雑炊にす
「丁助。おい、ピンゾロの丁助!」 「この辺に逃げ込んだのはわかってんだ!」 「とっとと出てきやがれ!」 せっかく息を潜めて隠れているのに、何度も大声で叫ばれては堪らない。 丁助は慌てて空木桶の中から身を乗り出した。 「五月蠅ぇ、馬鹿。付け馬どもに見つかっちまうだろうが」 「そんな処にいたか」 組み立てられた木枠に支えられ、縦三段に並べられた大桶の最下段。 底蓋に貼り付いていれば、余程の思い付きでもない限り普通なら確認などしないであろう隠れ家に、ピンゾロの丁助は息を殺し
昭和から平成を経て令和に突入した現代ですら、その年数を合計してみれば、僅かに百と数年である。 その間に起こった物質的、精神的変容を顧みれば、総じて二百五十年前後という近世の中でもたらされた同様の変化が如何に驚異的なものであったかは、想像に難くない。 江戸幕府が|開闢してから百五十年も経つと、幕臣藩士たちの中からも特異な所論を有する者があらわれてくる。 かつては寧猛ねいもうで我武者羅でもあった武士たちは、戦の起こらぬ時代と共に牙を抜かれ、信義や勇名を求めるよりも平
行き交う人も乏しい夕暮れの奥州街道。 越河宿と斎川宿の間に侘しく佇む旅籠『伊駒屋』の玄関をくぐった侍は、まず本来ならその場に居なければならぬはずの人の姿を己の両眼で探し求めた。 「御免」 返事どころか人の気配すら無い。 「御免」 もう一度、今度は語気を荒げて呼んでみたところ、ようやく旅籠の奥から此方へ向かってくる足音と共に、齢の頃は三十前後、白と紺の縦縞の着物に安っぽい玉簪という、垢抜けず田舎臭さの抜けない中年女がひょいと顔を出した。 「あらまあ、お客さんですかえ」