樹木の後ろ姿についてゆく
noteに書くことで
自分のしたいことは
なんだろう?
今朝はそんな感じの思いが
浮かんできました。
しかし。
今日は稽古ごとで早出の日。
それなのに遅く起きたから、
ゆっくり書いている暇はない。
そんなときに、
樹木のことを
どれだけ書けるか?
今朝はそれに挑戦してみようと
思います。
たぶん書き足らないと思うので、
続きは続編にするとして。
それにしても。
この30年近くで
自分が木から教えてもらったことを
思うと、果てしなくあります。
木のために、と働くことで
木ばかりでなく、
自然界から?教えてもらったことも
たくさんあります。
本で読み勉強した知識は、
私の場合、忘れます。
最近特に忘れる…
どうしたものか?
ですが、木から教えてもらったこと、
木が懸命に、賢明に生きる姿、
それを勝手に後ろ姿
と呼んでいますが、
それは忘れられない知恵です。
この仕事を始めた最初の頃、
もちろん樹木医でもなんでもない
むかしの話。
でも、その頃の樹木との
やりとりは鮮明に思い出せます。
なぜって、後ろ姿で、
いつも自分を励まし、
引っ張ってくれる存在
だったから。
今でもそうなのですが、
私は要領が、
かなり、とても悪い。
で、優秀な人たち、
しかも樹木や自然のことについて、
知識ばかりでなく
長年の経験もある人たちに
混じって仕事をするのが
とてもツラかった時期がありました。
たとえば、樹種が
なかなか覚えられない。
それでグチをこぼしていると、
堀先生はこういって
励ましてくださりました。
「英語の単語だって、
すぐには覚えられなかったでしょう?
樹種も一緒、
やっているうちに
いつの間にか覚えられてますよ」。
そっか… 記憶力悪くても、
やり続けるしかない。
それでも、仕事の中で
樹種を同定するのは
今でも得意ではない方。
さらには目まで悪くなって…
で、近年、先生に、
どうしたものでしょう?
と嘆いていたら、
「そんな魔法のような方法はありませんよ」
という、少々呆れたようなお返事。
それを聞いて、
先生はたくさんのことを
地道にやってこられたから、
あれだけのことができるのだ、
と納得できました。
さて、話を樹木に戻しましょう。
そんな悪戦苦闘の私でしたが、
仕事をしているうち、
無言で、でもはっきりと
励ましてくれている存在がいる、
と気づきました。
それは、とても厳しい状態で、
それでもひたすら生き続けようと
格闘する樹木の姿。
最後まで諦めることなく
自分にできることをやり続ける
樹木たちが生きて見せてくれる
お手本でした。
木は、生立木(せいりゅうぼく)
という用語があるくらいです。
基本的には、ほぼまっすぐ立って
暮らすのがふつう。
でも、ときどき、いらっしゃいます、
地面に横たわって生きる木が。
しかも、ちゃんと、
そうなってから、
形を最適に
作り変えて暮らしています。
木って、すごいなあ、えらいなあ。
あんなこともできるんだ!
他にも、「皮だけの木」
という生き方もあって、
とにかく幹の中身がほとんど
すっからかん、になっている。
で、ごく一部の樹皮だけで
暮らしています。
生理学的にみると、
外側が健全であればやっていける。
理論的にはあり、
なのですが、
実際にやって見せてくれているのを
みると、そりゃ、感動しますよね。
それらの木の生きる姿に
大いに励ましてもらい、
恩返しをしたい、と思って
仕事をしていたら、
あっという間に30年近くも
経っていて、おどろきます。
悲しいことに最近では、
そのような姿になってまで
生きて見せてくれる樹木の姿が
身の回りから
消えてしまいました。
同時に、木の姿を見て
感動する機会も減ってしまった。
なぜか。
腐っていたりして
ちょっとでも危なく感じる木に
対する人間の目が、
以前よりも厳しくなったからです。
最近、自分の心がすさんでいる?
と感じることが多くなっていた理由が
この記事を書いていて
わかりました。
木がアクロバットに生きる姿を見て
ひたすら感動する、
という経験が少なくなってしまったから、
だったんですね。
今、盛んに行われている
危険度判定の結果、
弱点をもった木は、
シビアに伐採されます。
よくても強めの剪定。
たとえ、それが
ムササビの大切なすみかであろうとも。
安全性を高めていくことは
もちろん大事なことですが、
失っていることも、
ないわけではない。
それを思うと、
安全性と自然のおもしろさに感動する、
その両立に取り組んで行きたい気がします。
いいとこ取りはむりなら、
せめてバランスを取ろうとしたい。
そう感じますが、どうでしょうか?
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