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木曽義昌は御嶽山に登ったのか

 御嶽山ビジターセンターを訪れると、山の歴史を記した大きな年表が飾られている。この年表には、永禄3(1560)年、木曽義昌が御嶽山に登山したと記されている。同様の見解は『木曽福島町史』にも採用されており(第一巻, pp.130-131)、通説になっているといえよう。

御嶽山ビジターセンターさとテラス三岳の年表。1560年に木曽義昌登山とある。

 木曽義昌とは、戦国時代の木曽谷を支配した、木曽義仲の直系の子孫を名乗る国衆である。目まぐるしく情勢が変動する戦国時代にあって、武田、織田、徳川、豊臣と巧みに主君を乗り換え、木曽家を存続させた人物だ。このような木曽谷の支配者も御嶽山に登っていたのであれば、大変興味深い話である。

 しかし、この話の根拠となる大元の史料を辿って行くと、御嶽山に登ったのは本当に「義昌」だったのかという疑念が湧いてくる。この記事では、その点を深掘りしていきたい。

 この話の大元にある史料は、以下のものである。

御嶽為精進当掃百日斎諸願成就皆令満足也為後日一筆如件
 于時永禄三庚申年林鐘十三日
                   源朝臣木曽長政
(後略)

『信濃史料』巻十二,p.300より

 この文書は木曽町三岳にある黒澤御嶽神社の禰宜の所蔵の文書であると伝わっている(『木曽福島町史 第一巻』,p.131)。
 『信濃史料』は「コノ文書、ナホ研究ノ余地アリ、後考ニマツ」と記しているが、ひとまず正しい内容の書かれた文書として扱いたい。

 この文書の内容は、永禄3(1560)年、「木曽長政」なる人物が、100日間の精進(肉食を断つなどして体を清める行為)の後に、従者らと共に御嶽山に登り、諸願成就を祈願したというものである。

 注目すべきは、文書の執筆者が、木曽義昌ではなく「長政」である点だ。
 『木曽福島町史』では、この点について、木曽長政がこの祈願を機に「義昌」と名を改めたものであると説明している(第一巻p.130)。

 町史はこの説明の根拠を明らかにしていないが、恐らくは『木曽旧記録』の記述である。
 嘉永4(1851)年に成立した『木曽旧記録』の「義昌御嶽登山之事」という記事には、「義政」がこの登山を経て「義昌」と名を改めた旨が記されている。「長政」という名前は出てこない。

 前掲の黒澤御嶽神社伝来の「木曽長政」の古文書の内容と異なる『木曽旧記録』の記述は、どのようにして生まれたのであろうか。
 おそらく『木曽旧記録』の著者は、前掲の古文書を見て、「木曽長政」を戦国時代の木曽氏の人間であると考えた。江戸時代を通じて伝わる木曽氏の系図によると、文書の書かれた永禄3(1560)年は木曽義康・義昌親子の代である。したがって、著者は「まさ」の字の共通する「長政」を「義昌」と同一人物であると断定した。そこで、元の古文書の「長政」という記載を離れて、「義政」が「義昌」に改名したというエピソードを作ったものと考えられる。

 そして、『木曽福島町史』の著者は、後世になって
 ・「長政」と書かれた古文書 と、
 ・「義政」が「義昌」に改名したと書かれた『木曽旧記録』
 という2つの史料を参照し、両者を整合的に解釈しようと試みた結果として、「長政」が「義昌」に改名したという前記記述を生み出したのではないだろうか。

 このように研究のプロセスを紐解いてみると、そもそも「長政」と「義昌」が同一人物であるという解釈は、『木曽旧記録』の執筆段階での誤解である可能性も残っている。
 すなわち、「長政」と「義昌」は別人であるとも考えられるのである。この点、『武田氏家臣団人名辞典』において、丸島和洋氏が、両者を別人とする見解を示している(p.273)。
 素直に考えれば、名前が違うのだから別人と考えた方が自然である。

 では、義昌と別人である「木曽長政」とは一体誰なのであろうか。それを考えるヒントとなるのが、永禄8(1565)年10月1日、木曽義昌が家臣たちと共に黒澤御嶽神社若宮に奉納した「三十六歌仙板絵」だ。

木曽義昌公奉納三十六歌仙板絵

 この板絵の裏側には、それぞれの奉納者の名前が墨書されている。
 うち数枚の奉納者は、「木曽(九郎次郎)長稠」なる人物である(『信濃史料 巻十二』, pp.589-590)。

 「長政」と同じ「長」の字を諱に含んだ「長稠」の存在を見るに、系図には掲載されていない、「長」を通字とする木曽家の分家があったものと考えられる。「長政」はかかる分家の人物であったのであろう。
 この三十六歌仙板絵の奉納者名は、木曽氏の家臣も含め、二次史料に現れない戦国木曽の人物の名が多数記されており、大変興味深い史料である。

 長くなったが、結論をまとめると、永禄3(1560)年に御嶽山に登った「木曽長政」はあくまで「木曽長政」という人物であり、木曽家当主の木曽義昌ではない可能性が高いという話である。

 つまるところ、木曽義昌は少なくとも永禄3(1560)年には、御嶽山に登っていない可能性が高いのだ。ロマンをぶち壊し、ビジターセンターに喧嘩を売るような結論で非常に恐縮であるが、私見として敢えてここに書き留めておこうと思う。


参考文献
『木曽福島町史 第一巻』
『信濃史料 巻十二』
『木曽旧記録』
柴辻俊六,平山優,黒田基樹,丸島和洋 編『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版,2015年)

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