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君を慰めるのは私の役割ではなかったね

明るさは裏から見ると悲しい色をしているのかもしれない。

2024年2月9日北國新聞『時鐘』

Twitter(私は今でもなお、XではなくTwitterと呼んでいる)によって、普段の生活ではまったく接点のない人の声もよく聞こえるようになった。
例えば闘病中の人や障害をもつ人の生活だ。

辛い状況下でも前向きな投稿をする人もいるが、怒りや悲しみ、不安なども多い。

時には心無いリプライがつくこともあり、「どうしてこんな酷いことを言えるのか」と思うこともある。
それでもさまざまな立場の人にとって、Twitterは、心の内を吐露する貴重な場だ。

彼らはリアルの世界では、自分の言葉や感情をぶつけることによって、他人を困らせるかもしれない可能性について知っている。
だからとても優しい人たちなんだと思うし、それぞれ状況は違うが、私は応援の気持ちで見させてもらっている。

それを、こんなところで言っても仕方がないが。

そして、そのような投稿を見るたびに思い出す。
前の職場にいた明るくて仕事のできる上司が、障害のある子どもを抱えていたことを。
飲みの席で教えてもらうまで、かなり長い間、部下の私はそれを知らなかった。

その上司は、要領のあまり良くない部下にも根気良く接していたし、コミュ力のない私にもよく声をかけてくれていた。
「どうすればこれほどできた人間になれるのか」と思っていたが、その背景には、意思疎通すら難しい子どもとの関わりがあったのかもしれない。

少なくとも私たち部下は、言語のコミュニケーションがお互いにできたから。

いわゆる「良い人」にこそ、「良い人にならざるをえない理由」があるのでは。
この1件以来、私はそう考えるようになった。

もしかしたら上司にも愚痴アカがあって、そこには将来への不安や苦しみが書かれているのかもしれない。

そうあってほしいとさえ、思う。
少なくとも仕事において、私から見れば完璧な人だったから、他のところでまで完璧じゃなくてもいい。

しかしそう思うのは、あくまで上司が上司だからだろうか。
より身近な人、家族や友人、パートナーなら、「SNSじゃなくて私に言ってよ」と思うのだろうか?

もちろん「辛い時は無理しなくていい」とは思う。
しかし私の前では明るく振る舞いたいのなら、そうしてくれ。
たとえそれがどんなに歪でも、私は受け入れる。

そういうスタンスでは、ダメだろうか。
私は人の感情に対して鋭いとはいえないので、結局、相手が見せたいと思うものしか見られない。

だから辛い時こそ気丈に振る舞う人には、気丈な部分しか見てあげられないのだ。

すぐそばにいる人の深い感情は知らないのに、顔も知らない誰かの苦しみをTwitterでいつも見ている。
なんだか不思議だ。

私がもし大きな感情を抱えた時、それはリアルとTwitter、どちらに投げるのだろうか?




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