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2024_0515_本読み

<1399字>

冒頭の写真:
孟宗竹のタケノコの季節が終わると、
うちのタケノコの季節になります。
今年は、4月の授業で行った秋田の市民市場で、なしろだけ(見た目、ひめだけ=チシマザサ=ネマガリタケの大きめ)というのを買ってみた。ゆがいただけだとややくせがあったが、てんぷらとても美味しかった。
うちのもサイズ的には似てるので、てんぷらを初試みたが、やっぱり苦さが勝つ。
で、丁寧に米糠で茹でて、さらしてみた。さて何にしようかな。
青椒肉絲的なやつかな。


5月15日(水)は以下を読みました。


『巨匠とマルガリータ』 
ブルガーコフ 著

集英社 世界の文学15 ロシア Ⅲ

マタイとピラトの対話は「ユダをやったのは私だ」というピラトの宣言で終わった。そして彼はもはや明るくなった時間にようやく安息な眠りにおちる。ヨシュアの処刑に対する贖罪をしたことにして、ひとときの安らぎを味わっているのだろうか?

と、このピラトのお話を読んでいたのは現代のモスクワにいるマルガリータ。永遠に失われたかに思われたこの原稿を取り戻し、愛する「巨匠」も隣の部屋でやすらかに眠っているのは、すべてヴォランドの魔術のおかげ。

いっぽう巷は、ヴォランド一味が50号室からこつぜんと消えたことで大騒ぎになっています。

(音読した人:山崎)





『科学と宗教と死』 加賀乙彦 著

集英社新書

キリスト教世界では、神が作った世界はどうなっているのか、を探るところから科学が起こった。
一方、大日如来のことなど考えると、一神教的にも見える仏教の世界だが、大日如来は世界を作った者ではなく、世界を観る者(なのかな)。

そんな感じのことを、こいでさんが言う中で山崎も考えてしゃべっていると、なぜ?どうやって?どのようになっている?と原因を限りなく探究する科学というものが、いかにも創造神がいる世界で生まれたもの、という気がしてきました(創造神は何をどうしたんだろう?という視点)。

仏教世界(というより、創造神がいない世界)では、あるものはあるのであって、そこに強力な「なぜ?」はない、と感じているように思われた。というか私はそんな感じ。
因果律って科学でも使われるけど、元々仏教の言葉?

今回で読了でした。

(音読した人:こいでさん)





『漱石・子規往復書簡集』 和田 茂樹 (編集) 

岩波文庫

漱石の37通目、明治28年。神戸の病院にいる子規宛のもの。
子規は、日清戦争の従軍記者となって戦地に赴いたものの、病気が悪化して5月14日に大連を発ち、24日に神戸に着き、入院。ここから二ヶ月間病院暮らしとなります。
漱石は松山暮らしとなり、子規の親類や知り合いが世話をやいてくれようとする。子規には申し訳ないがと断りつつ、いなかの人は不親切で、文句を言う、しかもノロい、と腐していました。

(音読した人:めいさん)





『芭蕉七部集』  中村俊定 校注

岩波文庫
『猿蓑』
☆                   
〈 梅咲て人の怒の悔もあり  露沾 〉

巻の四、春に入りました。
内藤露沾ろせんの解説を読むと、蕉門中もっとも身分の高い人、そして、家老の讒言でおとしめられ部屋住みのまま生涯を終えた、とありました。
部屋住みということば、初めて知りました。家督を相続しない状態で親の家にとどまってる息子のこと。
そう思うと、句の内容を想像できる気がしました。

(音読した人:山崎)

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