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向田邦子脚本「阿修羅のごとく」 オリジナルとリメイク見比べてみる

向田邦子脚本のドラマの中でも、筆頭に挙がることの多い「阿修羅のごとく」が、是枝裕和監督の手によりNetflixでリメイクされるというので昨年から楽しみにしていた。

「阿修羅のごとく」は、70歳になる父親に愛人と子どもがいると知り、四姉妹に動揺が走るところから物語は始まる。50歳で後家の長女・綱子を筆頭に、サラリーマン家庭を守る専業主婦である次女の巻子、男性と付き合ったこともなく地味でつましい生活をする潔癖症の三女・滝子、皆に隠れて無名のボクサーと同棲する四女の咲子。家を離れ、そこはかとなく疎遠だった四姉妹は、この件をきっかけに頻繁に連絡を取り合うようになるが、それぞれに抱えている問題も見えはじめる…といったストーリーだ。

長女は既婚男性と爛れた不倫の関係を続けているし、次女は夫の浮気を疑い満たされない気持ちを取り繕うのに精一杯。三女のことを頭の硬い欲求不満と嘲る四女、三女は頭の悪いビッチと四女を蔑む。そうして四人ともがお互いを理解できないと嘆き、大声で罵った直後に、ささやかな思い出話で笑い合うような、げに不思議なる「家族」という関係性を描いた向田邦子作による昭和を代表するドラマのひとつ、である。

人にはどうしようもなく弱く愚かな部分があり、そうしたところを諌め、許し、飲み込めずともまるごと受け入れることができるのが「家族」なのだという、ひとつのあり方を描いた傑作なのは間違いのないことだ。しかし、描かれる時代が「昭和」であるから成立しているところもあるように思う。不倫などしようものなら即キャンセルされるこの令和に、かような話をリメイクするってどうなるんだろう、というのがまずの興味だった。

せっかくなので、オリジナル版(パート1・1979年/パート2・1980年)もU-NEXTで事前に見ておいた。(2003年に森田芳光が監督した映画版もあるが、尺の関係で改変しまくりなので、ここは割愛)

結論から言うと、両方見るとさらに面白いので時間許す方は、見比べるのをおすすめします。

オリジナル版は、パート1が3話、パート2が4話構成となっていて、話も普通に続いているのだが、実際には1と2の間には約一年放送期間が開いている。その間に、次女の夫役が緒形拳から露口茂にキャス変しており、配信で見ていると急に人が変わってびっくりするので注意である。

などという話を敢えて書いたのは、オリジナル版はこの、緒形拳がとにかく良かったからである。もちろん他キャストも皆素晴らしいし、パート2の露口茂だって十分良いのであるが、緒形拳が良すぎる。何かと揉めがちな義実家の人間関係の調整役として八面六臂の活躍を見せる次女巻子の夫・鷹夫は、嫁の家族とも仲良く付き合う人当たりの良い中年男性であり、頼りがいもある。会社でも仕事が出来、人望も厚い。愛嬌のある善人で、ちょいダサなんだけどそこはかとなく色気もあって、本当にしみじみと、「あー…こういう人、モテそう……」と思わされるのである。例えるならばMCUのホークアイ(ジェレミー・レナー)。この絶妙な塩梅がとにかく素晴らしかった。

「阿修羅のごとく」は四姉妹の群像劇であるが、次女巻子にほんの少し軸足を置いていて、彼女が「夫が浮気をしている(かもしれない)」と疑い続けているというのは、このドラマのサスペンスのひとつとなっている。思わせぶりに疑わしいシーンが度々挿入されるが、決定的な事態にはならない。巻子にも視聴者にもはっきりしたことは最後までわからない。あの人やっぱり浮気してそう、いやいや、してそうだけどしてなさそう…の間を忙しく反復横跳びする妻と視聴者。そんな人物を演じる緒形拳、完璧であった。オリジナル版のこの緒形拳を見るだけでご飯が三杯食べられる。

(ちなみに、露口茂はやや浮気してそうで、Netflix版・本木雅弘は全然浮気してなさそう。個人の感想です。)

さて、そんなこんなで準備万端整えて迎えたNetflix版。

この、複雑な人間模様を描いたドラマの魅力を損なうこと無く成立させられており、良かったのではないかと思う。映像も美しく、昭和の風景も再現できていたと思う。お金も時間もちゃんとかけた力作であり、さすがと思う。と、同時に原作たる向田邦子脚本の一切の無駄のない見事さ、いつの時代にも訴える普遍性、脚本そのものの強さに驚かされた。

話数も尺もほぼオリジナルと同じで、脚本もほとんど改変なく、オリジナル版と同じように展開する。だからこそ、差異が気になるということはあった。またこのNetflix版が、これをそのまま通すんだなと思えば、えっ!ってところを変えてきたりするので油断ならない。なぜここを変えたのか、変更にはどういう意図があるのか。そういうことを考えながら見るのも、楽しいことである。

長女・綱子役・宮沢りえがとてもいい。加えて、不倫相手の料亭の主人・内野聖陽もいい。相手の妻は二人の関係を知っていて悲痛な思いを抱えているというのはドラマの中でもきっちり描かれているので、今のご時世にそのまま描いたら普通にヘイトを集めてしまいそうだが、宮沢りえも内野聖陽も、愛嬌たっぷりにのびのび演じており、おおらかで憎めない。このカップルはコメディリリーフ的な役回りでもあるのだが、このドラマのテーマのひとつである、どのような人生にもつきまとうどうしようもない孤独、だからこそ誰かを傷つけても誰かといたいと願ってしまう欲深さ切なさも、演じきっていたと思う。

個人の印象だが、Netflix版の四姉妹は、ほんの少し気が強めに味付けされているような気がした。現代の女優たちが演じることで、どうしてもそのように見えてしまうのか、敢えての演出なのかはわからない。やはりオリジナル版は、男性中心社会の時代が色濃く反映しているし、女性たちはある種の諦めを内包し、最終的には言いたいことを飲み込んでいるところがある。Netflix版は、そういう場面でも若干語気が強めで、同じセリフを言うのでも意思表示のあり方が、本当にわずかに違って見えた。

音楽にも同様のことを感じる。Netflix版は、ドラマ中あまりBGMはなく、かかったとしても強く主張するようなことはない。翻ってオリジナル版のメインテーマは、一度聞けば忘れられないような独特なトルコの軍楽で、ことあるごとにかかるその曲によって見ているこちらは否が応でも不穏な気分が煽られる。女性たちが口に出せず溜め込んだ怒りの表現としても、曲は機能しているのだ。このドラマを象徴するようなこの曲を、Netflix版は使わないというのは意外だったが、そのあたりが重ね重ねになってしまうことを避けたのかもしれないなと感じた。

脚本は基本フォローの言葉を添えたり、説明的なシーンを加えながら、全体的に「感情の動きがわかりやすいように」「できるだけキャラにヘイトが向かないように」というところに重点を置いて調整が行われているように思う。いくら五十年近く前の時代を描いたものだという前提で見る“時代劇"だとしても、今の時代に出す以上、当然の配慮なのだろう。たとえばオリジナル版の父親役・佐分利信は、こんなにセリフが無い役があるのかと思うほど黙して語らず、表情もさして変わらない。もはや呻きのようなものであらゆる感情を表現していて、佐分利信の凄みすら感じられて見事なのだが、令和であれはやっぱり無理なのだろう。Netflix版の國村隼は、まあまあ喋る。多少蛇足ではと思うところもないではないけれど、それでもギリギリ、元と大きく印象を違えないようにという努力は感じたNetflix版。頑張っていたと思う。


が、部分部分で気になるところはあるにはある。

私がもっとも気になった改変(個人的には改悪と言いたい)は、物語の最終盤。四女・咲子が窮地に陥り、それを三女・滝子が助けるくだりだ。ここは絶対オリジナル版の展開のほうがいいと思う。
いろいろあって心身ともにボロボロになった咲子が、ついふらふらと一晩を共にしてしまった男から後日、金を強請られるという事態になる。切羽詰まって混乱し、“間違って"日頃険悪な仲である滝子に電話してしまう咲子。しかし滝子はすぐに駆けつけ、機転を利かせ、一気に解決にもっていく。あのスピード感、彼女の「勉強できるキャラ」も活きる、滝子ならではの見事なシークエンスだった。Netflix版では偶然そのタイミングで病院に来た滝子に、咲子が思い余って独白に近い弱音を(かなりの長尺で)一方的に吐露し、それを受けて同情を寄せた滝子が代わりに脅迫者と対峙するとなっている。これがそこまで悪いというわけではないのかもしれないが、病院に現れたのが例えば次女であっても、成立してしまうのではないだろうか。

咲子の辛く苦しい心情は、あんなに口に出して長々と説明せずとも、滝子も(そして視聴者にも)わかっていたと信じたい。滝子の内から弾けるように発せられる、「自分も同じ立場だったら同じことをしていた」という咲子に対する初めての共感は、事前説明がないほうがやはり威力があったと思う。この改変は残念だった。

このシーンに至るまで、Netflix版は、他の姉妹に比して三女・滝子と、その恋人、後に夫となる勝又のストーリーについて、(時に冗長に思えるほど)繊細に描写を増やし丁寧に演出しているように見えていたので、最後の最後で見せ場とも言うべきシーンがナーフされているのが少し不思議だ。
四姉妹の中で、もっとも劇的に内面の変化を見せるのは三女であるし、最終的に頑なさから解き放たれていく様はストレートに感動的だ。男性嫌悪で家族に対してもギスギスと攻撃的なところのあった彼女が、父の、父親ではない一面を知ることをきっかけに、ひょんなことから恋を知り、夫を持つことになる。パートナーの辛抱強いコミットもあり、少しずつ心を開いていく中で、人の気持ちというものは善悪や社会規範などでは単純に割り切れないと理解し、父や家族を自分なりに受け入れていく流れは、このドラマのメインテーマと重なるし、もっといえばこのセンシティブなドラマを2025年にリメイクするということの意義にもなっていたのではないかと思うのだ。

とはいえ、それは私が直近でオリジナル版と見比べるという、少し意地の悪い見方をしているからこその感想であるし、Netflix版はクオリティの高いリメイクだったと思っている。新年早々、充実した鑑賞体験ができて、楽しく嬉しかった。

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岸田志野
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