
【こんな映画でした】919.[ケス]
2019年11月30日 (土曜) [ケス](1969年 KES イギリス 112分 初公開1996年)
この映画は去る7月に読んだ『「こどもと映画」を考える 13才までに見せたい名作映画50ガイド』(キネマ旬報社 2012年)に紹介されていたものの一つ。
監督のケン・ローチはこれまで[天使の分け前](2012)・[わたしは、ダニエル・ブレイク](2016)を観ている。今後も見ていきたい監督の一人だ。さて主人公は言うまでもなく少年、撮影当時15歳くらいのデヴィッド・ブラッドレイ。
イギリスの労働者階級の人々を描く。主人公キャスパーもシングルマザーと血の繋がらない兄との三人暮らし。15歳になり学校を終えると同時に働くことに。そのための就職面接のシーンもある。日本でいえば中卒で働くということ。
自ずからその職種は限られている。基本はこの映画の舞台のように鉱山で働くこと。キャスパーが事務仕事がいいと希望を述べるが、それはとても叶わないことだ。読み書きがいまひとつだと、兄が言うシーンがあった。
同じ時に母親と面接に来ていた男の子はきちんとした服装から見ても、キャスパーほどの下流階級ではなさそう。その母親が自分の子どもに事務系の仕事を希望させようと話している。ところがその彼は、母親の意に反して鉱山で働きたい、と。この二人の15歳を対比させている。ここでは描かれないがおそらく最終的に、その子は母親のいう通りに事務系に、そしてキャスパーはその意に反して(?)義兄同様鉱山で働くことになるのだろう。
イギリスの階級意識は相当なもので、キャスパーの通う学校のクラス内でもその貧富や階級の差が感じられる。つまり良いところの出の生徒は親の威光をすぐに持ち出している。その愚かさを教師に指摘されるシーンもあるにはあったが。
このキャスパーという孤独な少年にとって唯一の心の通わせることのできる対象が動物たち、特に鳥たち、そしてここでのタカ(名前をケスとつける)であった。だから彼はそのタカを見に来た教師に言う。タカはペットではない、と。彼はタカを一個の人格(?)として尊敬して付き合っている、いや付き合ってもらっているという感覚なのだ。
全編を通して学校のシーンが多いのは、キャスパーがまだ生徒であるから仕方がない。映画の中で一度カレンダーが映るのだが、それによると「1968年」。教師はとても威圧的であり暴力的である。精神的な意味でも、肉体的つまり体罰という意味でも暴力的なのに驚かされる。
そして授業のやり方は面白くない。これまた威圧的であり、本当に非教育的なやり方でやっている。それは学校が労働者階級の町にある、いろいろな意味で程度の低いところであるからというのもありそうだ。もちろん教師は貧しい階級ではないだろう。
彼ら労働者の唯一(?)の楽しみは、毎土曜の夜のパーティー。バンドがギターを弾き、歌い、と。あまり上品とは言えない歌詞が出てくる。踊りとお酒。それらが精一杯のところなのだろう。なお母親はこのパーティーに出かけるとき、キャスパーにお金を渡して晩ご飯を食べるように、と。食事を作ってということすら、そんなにきちんとはなされていない。それもまた労働者階級所以のものなのかもしれない。
いずれにせよ庶民・労働者階級・細民といった社会の底辺の人々を描く映画が作られていることに、私は正直驚きを覚える。日本にかつてこのようなジャンルの映画があったろうか。おそらく作られても人は見に行かないだろう。
と書きながら映画[キューポラのある街](1962)など昔はあったのか、と。はたして今はそのようなジャンルの映画はあるのだろうか。