【こんな映画でした】738.[東京画]
2022年12月22日 (木曜) [東京画](1985年 TOKYO-GA 西ドイツ/アメリカ 93分)
ヴィム・ヴェンダース監督作品。1983年春の東京風景。だから「風景画」ならぬ、「東京画」ということだろう。東京は桜の季節で、路上で宴会をする男たちを。あるいはパチンコ店での状景。ホテルやタクシー内などでのテレビの映像もある(ドラマ「銭形平次」もあった。野球中継も)。後楽園のゴルフ練習場とかも。食事に入ったお店では、まず陳列ケースの料理見本を。そしてその延長上で、それら見本を作る町工場へも。
しかしそもそもは、小津安二郎の[東京物語]へのオマージュからのもののようで、オープニングシーンとラストシーンはその[東京物語]のそれぞれが使われている。
そこで笠智衆のインタビューがある。彼と監督は北鎌倉にある小津安二郎の墓地へ。墓石には名前らしきものはなく、単に「無」とあるそうだ。「無」とは何か、と少し言及している。それはともかく、笠智衆は小津安二郎との撮影でのやりとりについて語る。実は年齢は一歳違いだったとのこと。一歳上でも、彼にとっては「師」であった、と。
本番が一、二回でオーケーになることはまずなく、20回とかもあったそうだ。彼は自分が下手だったからだろう、と言う。私もそれに同意しかけたが、次の瞬間それを否定した。他の役者(彼が主役なのだから、当然他の人は脇役ということになる)は、簡単にオーケーが出ていたのに、と言うのだ。それは違うだろう。主役だから、監督が納得するまで時間を掛けたということ。もしかしたら何回もやり直すのを観ていて、そこで監督自身も考え・模索していたのかもしれない。だから何テイクもかかったのではないか、と。私の今ふと考えついた仮説である。
小津安二郎の撮影助手であった原口という人のインタビューが、次にあった。小津安二郎はほとんど50ミリのレンズ一本での撮影だったとのこと。一度40ミリを提案したが、やはり50ミリのレンズが良いと言われたそうだ。パンもしないし、移動撮影もしない。つまりカメラを固定して、自らカメラを覗き、構図を決めていったそうである。
*
(20分~ ホテルでのテレビを映し出しながらのコメント)
テレビはどこでも世界の中心の顔をする。"中心"は今やこっけいな概念だ。もはや世界というイメージも意味をなさない。テレビが増殖するだけだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?