『ライトノベルは文学か?』と悩むより、「ライトノベルは文学よりも最高だ!」と叫ぼう

キシバです。
少し気になるエントリを拝見したので、こちらに。(noteだと引用記事を書いた場合、通知は行くんでしょうか?)

この記事です。

『ラノベは文学では無い』という言い回しは刺激的ではありますが、この方自身がその表現を好んでいないからこその記事のようです。

ただ、よく読んでみても、この話の主題はハッキリとしません。映画は芸術か? と言って、まぁそうとも言えるでしょう。だけど芸術でない映画もあり、売る為のモノでもある。だから芸術ではない。

……いやいや、だとすれば売るための絵画を模索したピカソしかり、世間一般で言われる芸術、文学など大半は芸術でも何でもなくなってしまいます。

突き詰めると「芸術などない」「文学などない」という話になるのでは? ということでもあり。恐らくは事実そうおっしゃりたいのだと思われます。『文学』を旗頭にライトノベルを否定される苦しみに耐えかねて、そう言いたくなってしまったのではないか、と。コメントでの言葉が一番熱く本音を語っておられました。「本音を言うと罵声で書き綴りたかった。」と。

けれど、『文学派』と正面きっての敵対はできない。様々なリスクがある。自分はもういい大人であり、社会的な道義もある。そういう板挟みに苦しんでおられる心中が目に浮かぶようでした。

ですがとはいえ。だからこそ私自身の立場からすると、思わずにはいられないこともありました。つまりは、

「文学なんざクソッタレだ。俺の愛するライトノベルの方が遥かに素晴らしい」と何故言えないんだ? と。

私にとっての「ライトノベル」というジャンル

この場で必要なだけの自己紹介をしておくと、私はライトノベルが好きです。この世のどんな創作物よりも、迷いなく一番愛しています。

出逢ったのは小学生の頃、世代的には『灼眼のシャナ』が最初に読んだライトノベル。中学、高校と上がっていってもちょうどライトノベルは全盛期。同世代にはハルヒを筆頭に様々なライトノベルを読む友達が大勢いましたし、そういった話題で盛り上がることにも事欠きませんでした。

私は小学一年生の頃から「しょうらいのゆめ」欄には『小説家』と書くタイプの子供でしたが、いつの間にかそれは『ライトノベル作家』という意味に変わっていました。新人賞も三次選考までは進むようになったので、あと二つ通れば作家、のはずです。(もっとも、そこから先に進めなかった先人の逸話も多いので、それ自体はだから何だという話ですが)

大学に進もうが、就職しようが、それは変わらず。(というより、進学も就職も「小説を書き続けられる環境」をまず前提に選びました)
何なら大学時代にリゼロを初めてぶっ通しで読んだ時はボロ泣きしましたし、りゅうおうのおしごと11巻を読んだ時には足腰が立たなくなりました。

どうして「ライトノベル」というジャンルが一番好きなのか。それはストレートな『感情』を、他のどの表現ジャンルよりも明確に主題にしているからだと思っています。

ファンタジーやアクションといった世界観、展開は(重要な)小道具。現実世界で私達が感じている『感情』を、最も適切な演出と設定によって突き詰め、その臨界点を描き抜くのが、私にとっての「ライトノベル」です。

『Re:ゼロから始める異世界生活』では主人公が一度は発狂し、その後も極限まで追い詰められ、絶望に心が折れ切った状況下で。そこから救い上げられるというあの感覚を。あそこまで濃密に描いた創作物は極めて希少です。

人類の歴史上、創作には「自然主義からの抽象化」という流れが存在しました。世界のありのままを描く視点から、描くべきものを描く抽象化へ。私はライトノベルがまったく異なる世界で『感情』に焦点を当てて描いていることは、抽象化の最も新しい段階だと考えています。

娯楽、エンタメとは常に『感情』を主題にしています。『感情』を揺さぶることこそが娯楽の役割であるがために、受け手の『感情』を何よりもターゲットとして磨き抜かれた表現が模索されています。

故に私は、私自身の価値基準として。「真に優れたエンタメはあらゆる芸術作品を上回る意味を持ち、また真に優れた芸術作品とはエンタメをも上回る『感情』への影響力を持つもの」だと考えています。

なので。これまで私にとって、『ライトノベルが文学であるか否か』は比較的どうでもいい話題の一つでした。文学の一切がライトノベルには及ばないことが自明であるのに、どうして低い分類に対してカテゴライズされることに意味があるでしょうか?

愛するものを愛していると言うのに、遠回りは必要だろうか?

もちろん――そこまでの断言をすることが憚られる、というツカモト氏の配慮はわかります。社会人であるのみならず、既に一定の知名度と立場ある方であるほど、自由な発言は難しい。

それに、文学を否定することにも抵抗があるのでは。私も文学そのものを嫌っているわけでも、好んでいないわけでもありません(たった今、あれだけ貶しておきながら!)。

文学性、芸術性とはとても素晴らしいものです。ナボコフの『ロリータ』が背徳的主題に対してあの美しい表現で先のない旅路にどれほどの人を魅了したでしょうか? ゴッホの筆致に込められた情念の重さを、彼の人生の背景を知るほどに感じ入らずにはいられないでしょう。

文学とは素晴らしい。芸術には計り知れない価値がある。
だからこそ、「自分自身の尺度で」私はそれら以上にライトノベルが素晴らしいと断言します。

『感情』を描く上で文学的技巧、芸術性はむしろ邪魔な不純物ともなり得る。だから私にとっては理想のライトノベルこそがこの世で最上の創作表現です。また必要とあらば、「私にとっては」で終わらせないためのあらゆる論理と根拠を用意するつもりもあります。

私は私が愛するものを、現時点の世間一般がどう捉えているかなど一切考慮せず「これは世界で一番素晴らしい物だ、異論の余地はない」と断言しましょう。私はまだ若く、愚かである権利がある。ならばツカモト氏が失ってしまったその権利を行使するべきなのでしょう。

そして同時に、文学を、芸術を愛するあらゆる人がそう叫び返す権利があるとも思います。ロバート・フローザック氏が「モダンアートはなぜこんなにひどいのか」と現代美術批判を繰り広げましたが、あれはまさしく時代への反抗の叫びに他なりません。

「俺の愛する物が世界で一番最高なんだ!」と。どれだけ見苦しかろうと、叫ぶことに躊躇などいらない。私はそう思っています。

例えば、『木根さんの一人でキネマ』という漫画の主人公はまさにそうした生き様で、己の愛する映画への迷いなき愛を、醜くも美しく叫んでいます。社会人としての仮面を一枚剥げば獣のような彼女を、しかし自らの心から拭い去りたくないと願うのは私だけでしょうか?

私の愛したライトノベルというジャンルの全盛期は過ぎました。しかしだからといって、二度目の全盛期が訪れるかどうかはこれから決まることです。以下の記事やその関連で日本のアニメ産業の海外販路拡大についても触れましたが、ライトノベルというジャンルの再興も、死ぬまでに目指したいことの一つでもあります。(一人のプレイヤーであるところの作家になる、というのとはまた別に、市場レベルの話として)

いつか私も夢破れ、現実に抗う気力を失くし、当たり障りのない言葉で自分が愛したもののために戦うことに怯えてしまう日が来るかもしれません。

けれどその時は。また別の若い誰かが、私の代わりに見苦しく叫んでくれることでしょう。「ふざけんな! 俺の愛したこれが世界で一番最高なんだ!」と。

そんな世界であればいい。そんな世界が続けばいい。
オブラートで包まれた愛なんてクソ喰らえ。誰もがではなくとも、せめて誰かが。こらえ切れない衝動を叫び続ける未来を、今はまだ自分の手にバトンを握る者として、願っています。

――もちろん、願うだけで終わらせるつもりもない。

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