年間第33主日(B年)の説教(後半)
◎ マルコ13章24~32節
〇 11月17日の説教の後半です。
前半では、いわゆる終末論の話をしました。
「終末」という漢語は、あまりにもジメジメした情けない語感を伴っているので、本当は使いたくありません。しかし、eschatology の訳語として定着してしまっているので、今さら変えることもできません。提案できる適切な訳語(漢語)もありませんしね。
eschaton とは「終わり」のことであると同時に、「目的」のことです。end と同じです。
歴史の終わりですが、歴史がそこに向かっている終着点です。そして、ただ終着点ではなく、そこからまったく新しい時代が始まる出発点です。それを「神の国」と呼びます。
終末論というのは、単に終末について論じるのではなく、終末が必ず来るという視野で「今をどう生きるか」を考えることです。
〇 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことがわかる。」
大正時代に、有名な二人の牧師が仲違いをして、互いに顔合わせることさえ避けるようになりました。一人は新約聖書の個人訳で有名な塚本虎ニだったと思います。かなり長くそういう状態が着いたんですが、二人のうちの一人の牧師の何かの祝いの集まりがありました。その集まりに、ひょっこり仲違いをしていたもう一人の牧師が顔を出したのです。
記念礼拝の説教をしたのは藤井武という、これも有名な牧師です。彼は、ひょっこり顔を出した牧師を見つけて、すっかり喜んで、「 今日、大きな喜びが天にある」と説教をしました。ルカ福音書15章7節の引用です。たぶん、もともと用意していた説教を急遽、変えたのでしょう。
この二人は、日本の教会でこそかなりの有名人ですが、世界レベルで言えば何者でもありません。しかし、その二人を隔てる壁が壊され、距離が近づいた時には、大きな喜びが天にあると言ったのです。15章10節では、「神の天使たちの間に喜びがある」と言われています。和解それ自体が神の天使たちの喜びであると同時に、終末の時、神の国がここで近づいたからです。
〇 戦争や虐殺は繰り返しは、私たちを失望させ、また時には絶望させます。しかし、その中でも、「いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びる」ような しるしはあるのです。
しかし、「しるし」は見ようとする目がなければ見えません。日本人は明鏡止水とか言って、心が静かになれば真実が見えるという考えに馴れていますが、聖書の考え方はむしろ、「見ようとする者に、神は見せてくださる」というものです。
マタイ福音書にこうあります。「体のともし火は目である。・・・あなた方の中にある光が消えればその暗さはどれほどであろう。」(5章22~23節)
目の光とは、神の国の到来の「しるし」を刮目して見ようとするサーチライトのような目力です。
〇 そして、「しるし」を見ようとするだけでなく、見た「しるし」に手を貸して、後押しをしようとする意志も必要だと思います。
身近な場所に諍いがある場合、その諍いの解決に手を貸すことは終末の到来を早めることです。放置することは、終末の到来を遅らせることです。自分が当事者の一人である場合はなおさらです。自分は身近な小さな諍いを放置しながら、一方でパレスチナ ―イスラエルの深刻な争いを嘆く態度は偽善です。放置しないということは、すぐに解決できるということではありません。時間のかかることが多いでしょう。一歩一歩、和解に向けての努力をする (諦めない) ということです。
第一ペトロ書簡にこうあります。
「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」(4章7~8節)
待降節第1主日のテーマは、毎年必ず、イエスの再臨です。この日の説教で、もう一度、終末論に触れます。
(了)