来住英俊神父

カトリックの司祭(御受難修道会)です。 宝塚市にある修道院で宣教司牧、執筆活動をしています。 司祭職の醍醐味は、主日(日曜日)のミサにおける信徒に対する説教です。 説教を掲載します。 お読みいただければ、光栄です。 プロフィール写真出典:キリスト新聞社

来住英俊神父

カトリックの司祭(御受難修道会)です。 宝塚市にある修道院で宣教司牧、執筆活動をしています。 司祭職の醍醐味は、主日(日曜日)のミサにおける信徒に対する説教です。 説教を掲載します。 お読みいただければ、光栄です。 プロフィール写真出典:キリスト新聞社

最近の記事

年間第33主日(B年)の説教(前半)

◎ マルコ13章24~32節 ◆説教の本文 〇「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。」 〇 ベトナム戦争が本格化したのは1965年でしたが、私はその頃、中学生でした。ベトナム戦争の惨禍は新聞で大きく報道されました。また、ソンミ村で400人もの村民が虐殺された事件がありました(虐殺は他にもあります)。 中学生だった私はもちろん、ベトナム戦争に反対だったし、ソンミ村事件には怒りを覚えました。しかし、「人間の歴史」そのものには、不安や焦燥を

    • 年間第32主日(B年)の説教【増補版】

      ◎ 列王記(上) 17章10~17節 ◎ マルコ12章38~44節 ◆ 説教の本文 〇 「大勢の金持ちがたくさん入れていた。」 貧しい寡婦の献金のエピソードは、仏教説話にも「貧者の一灯」という類似した話があります。イスラム教など、他の宗教にもありそうです。貧しい人の寛大な(与える心)を高く評価するのは、宗教的感受性と言えるでしょう。 しかし、こういう感受性は、日本の寄付文化にマイナスの影響もあるような気がします。 現代日本の金持ちたちは、公共の施設や計画に多額の寄付を

      • 年間第31主日(B年)の説教【増補版】

        ◎マルコ12章28b~34節 ◆説教の本文 〇 「あらゆる律法のうちで、どれが第一でしょうか。」 人間が頭の中で同時に考えることができるのは、三つまでだそうです。当時、律法と呼ばれるものは700近くあったそうですから、真面目なユダヤ人にとっても、その全てを守れているかどうかを考えることは不可能だったでしょう。 この律法を守っているかどうかを考えていれば、その他の律法は全て含まれる。含まれるとは言えなくても、その律法を守っていれば自ずと他の律法も遵守できるようになる。そ

        • 年間第30主日(B年)の説教

          ◎マルコ10章46~52節 ◆説教の本文 〇 マルコ福音書では、いつの時点で、イエスがエルサレムに向かわれたのかははっきりしません。アチコチに立ち寄って、癒したり教えたりしながら、ジリジリとエルサレムへと進んでいます。 そして、10章32節では、「 一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」とあります。 〇 「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされた時」 エルサレムへの旅の一つの区切りはエリコです (聖書地図を参照

          年間第29主日(B年)の説教

          ◎マルコ10章35~45節 ◆説教の本文 〇「確かに、あなた方は私が飲む杯を飲むことになる。」 「ことになる」という日本語訳はとても上手いと思います。英語では、You will drink the cup I drink です。単純未来形ですから、「あなた方は私が飲む杯を飲むだろう」となるでしょう。ギリシア語原文でも同じだと思います。 それをあえて、「飲むことになる」と訳したのは、「その時になって分かる」という味わいがあります。 〇 今日の朗読箇所の直前(10章33~

          年間第29主日(B年)の説教

          年間第28主日(B年)の説教

          ◎マルコ10章17~30節 〇「行って持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」 このイエスの言葉は、第二バチカン公会議の前までは、福音的勧告 (evangelical counsel)と呼ばれていました。 勧告と呼ばれるのは、全てのキリスト者が受け入れるべき義務ではない、受け入れなくてもいいと思われていたからです。 そして、修道生活を望む人は、この勧告を受け入れた人々と思われていました。義務以上の勧告

          年間第28主日(B年)の説教

          年間第27主日(B年)の説教

          ◎ マルコ10章2~16節 ◆説教の本文 私は長い間、小教区でミサをしてませんが、小教区の司祭たちは、今日の福音朗読でどういう説教をするのでしょう。 「今週の福音朗読はこれかよ。困ったな」と思う司祭も多いでしょう。 今日ではミサに100人の会衆がいれば、1人は離婚の当事者がいます。ひょっとしたら、3~4人いるかもしれません。 その中で、結婚の原則的不解消性に触れた説教をすると、関係者に極めて居心地の悪い思いをさせることになりそうです。 離婚に至るプロセスは実に千差万別

          年間第27主日(B年)の説教

          年間第26主日(B年)の説教【増補版】

          ◎マルコ9章38~43、45、47~48節 ◆説教の本文 〇「もし、片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」 たいへん荒々しいやり方で(切り捨てる、抉り出す)、罪を犯すことを避けよと言っています。しかも、この喩えがほとんど同じ形で3度(手・足・目)、繰り返されています。罪を避けることにおいて真剣でなければならない、ということだと言われています。 ヘブライ書簡に、「あなた方はまだ罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12章4節)と言われて

          年間第26主日(B年)の説教【増補版】

          年間第25主日(B年)の説教

          ◎マルコ9章30~37節 ◆説教の本文 〇 共観福音書 (マタイ・マルコ・ルカ)には、イエスが三度、ご自分の受難と十字架を予告するという記事があります。マルコでは、8:31 (前の主日に朗読)、 9:31 (今日の朗読)、10:33 (主日の朗読には含まれない)です。 三度、同じエピソードを繰り返すというのは御伽話のお約束ですが、三つの福音書が全て、三度繰り返しているのは意味のあることだと思います。 ”3”はシンボリックな数字です。折に触れ何度も話された、ということだと

          年間第25主日(B年)の説教

          年間第24主日(B年)の説教

          ◎マルコ8章27~35節 ◆説教の本文 〇「しかも、そのことをはっきりとお話になった。」 イエスは、何をはっきりとお話になったかと言うと、「人の子(イエス)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」ることになっているということです。 「はっきりと」は、英訳聖書では plainly あるいは openly となっています。 「あからさまに」と訳しても良いと思います。 また、「排斥されて殺されることになっている」には、ギリシャ語原文には d

          年間第24主日(B年)の説教

          年間第23主日(B年)の説教

          ◎ ヤコブ 2章1~5節 ◎ マルコ 7章31節~37節 ◆説教の本文 〇 年間の第2朗読は、福音朗読(第一朗読と関連している)とはまったく違う流れで選ばれています。使徒書の主な部分を順に読んでいくのです。 今日から4週間にわたって、第2朗読では、ヤコブ書簡が読まれます。パウロの書簡は全教会に向かって物申す調子ですが、ヤコブ書簡はこれとは違った、ローカルな親しみやすさがあります。具体的な小教区の場での教えという感じがします。 〇「立派な身なりの人に特別に目を留めて、『

          年間第23主日(B年)の説教

          年間第22主日(B年)の説教【改訂版】

          ◎マルコ 7章1~8, 14~15, 21~23節 ◆ 説教の本文 〇 福音書の中で、ファリサイ派(と律法学者)を批判してるところを説教するのは難しい。そもそも福音書の中に書かれていることが、歴史上のファリサイ派を公平に描写してるのかということ自体が問題です(全く公平ではないと主張する 有力な聖書学者もいます)。 しかし、公平な描写だとしても、福音書に描かれているファリサイ派の実践は、あまりにもバカバカしく思えます。現在の私たちを反省する上で、あまり役に立たないのです。

          年間第22主日(B年)の説教【改訂版】

          年間第21主日(B年)の説教【改訂版】

          ◎ヨハネ6章60~69節 ◆説教の本文 〇 年間第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章の朗読が続きました。 ヨハネ6章は内容が豊富で、説教のポイントを絞るのが難しいくらいです。この長い章は、ペトロの信仰告白で締めくくられます。第一朗読のヨシュアの信仰告白は、これに対応しています。 「私たちは誰の所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じまた知っています。」 〇 この信仰告白は、ミサの式文の中で、聖体拝領

          年間第21主日(B年)の説教【改訂版】

          年間第20主日(B年)の説教

          ◎ ヨハネ6章51~58節 ◆説教の本文 〇「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」 「私はパンである」というメタファーが、ここで「私の肉」に変わります。 「私はパンである」と言うと、「もぐもぐ、美味しいね、お腹いっぱいになったね」というノンビリした感じがありますが、「私の肉を食べる」と言うと、もっとビビッドでワイルドな感じがします。 イタリアに二年滞在した頃、無性に肉が食べたくてたまらない時ありました。日本人にとっての「米のご飯」にあたる

          年間第20主日(B年)の説教

          年間第19主日(B年)の説教

          ◎列王記・上、19章4~8節 ◎ ヨハネ6章41~51節 ◆説教の本文 〇 [典礼暦メモ] ヨハネ福音書の6章全体を5回の主日に分けて読む、その3回目です。 この章は非常に内容が豊富で、ポイントがたくさんあります。説教のテーマを選ぶのに迷います。 こういう時は、第一朗読(旧約聖書) が参考になります。何度か言ったことですが、年間主日はまず福音朗読が選ばれて、次に福音朗読をある一つの方向から照らす旧約朗読が選ばれるというのが原則です。今日の旧約朗読は列王記ですが、旅路の

          年間第19主日(B年)の説教

          年間第18主日(B年)の説教

          ◎ ヨハネ6章24~35節 ◆説教の本文 〇 [典礼暦年メモ] ー 今日はB年の年間第18主日ですが、第17主日から第21主日まで、ヨハネ福音書6章の全部が読まれます(16~21節は除外)。 ヨハネ6章は「地上のパン」「天からのパン」を巡る話です。 福音書のある一章を五回の主日に渡って読むことは、典礼暦年でこれ以外に例がありません。ヨハネの6章が、いかに教会で重視されてきたかが分かります。 今の朗読システムでは、年間には共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を読むことにな

          年間第18主日(B年)の説教