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年間第19主日(A)年の説教

列王記上 19章 9a, 11~13a節
◎マタイ 14章 22~33節

◆ 説教の本文

〇 イエスが、嵐の中で舟を漕ぎ悩む弟子たちを安心させたという記事は、マタイの8章にもあります(23~27節)。「信仰の薄い者たちよ」と弟子たちをたしなめられるところも同じです。 新しいところは、ペトロが願ったことです。

「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

ペトロのこの願いは、イエスの弟子として不適切な、未熟なものだったと思います。水の上を歩くというのは、たしかに人を驚かせるに足る華々しい出来事です。しかし、イエスの宣べ伝えた「神の国」とは何の関係もありません。イエスの教えられた 「神と人に仕える」こととは何の関係もありません。ペトロは、自分がイエスと特別に親密であることを確認し、誇示するためにこういうことを願ったのでしょう。

強い言い方をすると、ペトロは 「神を試みようとした」と思います。福音書の始めにある三つの悪魔の誘惑のうちの一つはこれです。悪魔はイエスを神殿の高い屋根の上に連れて行って、こう唆します。

「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4章6節)

イエスは、これを危険な誘惑であると悟って、こう答えられました。 「あなたの神である主を試してはならない。」(7節)

ペトロは憎々しい悪魔と違って、可愛げのある男なので、私たちはあまり意識しませんが、ペトロが願ったことは、この悪魔の誘惑と同質のものです。
浅原彰晃の弟子たちは、師の空中浮揚を彼の神性の証拠と信じました。地上から数十センチ浮き上がることは神性とは何の関係もないのに。

「イエスが『来なさい』と言われた」

では、イエス様は、なぜ「 来なさい」と言われたのでしょうか。ペトロの願いを受け入れられたのでしょうか。この一見無邪気な願いが、実は危険を孕んだもの、イエスの弟子として不適切なものであることを経験を通して悟らせるためではなかったかと思います。

信仰が薄いから水に沈んだのではなく、そもそも、大した理由もなく水の上を歩きたいという願いが不信仰なのです。だから、すぐに沈んだのです。
信仰とは、私と神(イエス) の関係そのものだからです。

〇 福音書のこの読み方は、皆さんが従来聞いておられるものとは違うでしょう。アクロバティックな解釈と思われるかもしれません。私自身、そう思わないでもありません。
しかし、第一朗読の選び方には、この読み方が示されていると思います。
年間の福音書朗読は、マタイならマタイの福音書から重要な箇所を順に読んでいきますが、第一 朗読(旧約)は福音書を照らすような箇所が選ばれています。

「風の中に主はおられなかった。‐‐ 地震の中にも主はおられなかった。‐‐ 火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリアは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。」

神の声は、派手な自然現象の中ではなく、静かなささやきの中に聞こえると言っています。「水の上を歩かせてください」という無意味な願いが、イエスの教えとは無縁のものであることが分かります。
神と人に仕えようとする地道な行動の中にこそ、イエスはおられるのです 。

ペトロは衝動的に言葉を発するタイプの人間でした。この傾向は後まで続いて、御受難の時には、「みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と、自分の勇気と忠実を誇示します。たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26章 33~ 35節) とまで言います。しかし、危険が自分の身に迫ると、 あっさりと逃げてしまいました (マタイ26章 56節)。

一時的な、瞬発的な信仰の強さは、キリスト者の生涯を支えるものではありません。信仰というものを、自分がどう生きようとするかという、生き方の中身から抽象して語るのは過ちだと思います。信仰とは、生き方の中身と相伴なって、少しずつ堅固に成長していくものだからです。ペトロは、水の上を歩いてみたいなどという衝動ではなく、イエスのこの言葉を味わえばよかったのだと思います。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

☆ 説教者の周辺

(1) 説教本文でも申しましたように、アクロバティックな解釈をしているのかもしれないという危惧はあります。今日の福音箇所の中で整合性が十分でないと思います。しかし、福音書全体としては、この解釈が整合性が高いと思います。
神と人を愛することがキリストの教えである、超自然的な行動が可能になることではない。これは福音書全体が言っていることです。

(2) イエスは、信仰についてこういうことも言っています。「 からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『 ここからあそこに移れ』と命じても、 その通りになる。 あなた方にできないことは何もない。」(マタイ 17章 21節)
イエス自身が、生き方から抽象して、信仰のあるなし、強い弱いを論じておられるように見えるのです。正直言って、山を素手で動かすことが「神の国」と何の関係があるのかと思います。これは、私の解釈にとっては弱点です。 しかし、この場合は、 てんかんの子供を癒すという具体的な行動とつながっています。イエス様は勢い余って、極端なことを言われたのかもしれません。さらに福音書のメッセージを考え続けたいと思います。