年間第10主日(B年)の説教
◆説教の本文
〇 長い四旬節と復活節が終わって、典礼暦の主日は「年間」 (ordinary time)に復帰します。今日は年間第10主日です。
実は、「聖霊降臨の祝日」の後で復活節は終わって、年間に入っているのですが、主日については、「三位一体の祭日」、「キリストの聖体の祭日」が続くので、主日が年間に戻るのは今日からです。
今日は年間第10主日ですが、四旬節の直前の主日( 2月11日)は 年間第6主日でしたから、 3つの主日が抜けていることになります。つまり、主日の朗読の3回分が読まれないわけです。
これは典礼暦の細かい話が必要なので(難しいわけではありません)、ここではしません。
ただ毎年、このあたりで、年間主日の朗読は3回ほど抜けるということを知っておいてください。
〇 B年の年間主日には、マルコ福音書の大事な部分を順に読んで行きます。
「身内の人たちはイエスのことを聞いてそれを取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」
後の部分(31節)を読むと、心配して取り押さえに来た身内の人たちには、マリア様が含まれていたようです。これは私たちには不思議に思われます。ルカ福音書を読むと、マリア様はイエス様の使命をよく理解していたように思われるからです。
今の聖書学者たちは、ルカ福音書はルカ福音書、マルコ福音書はマルコ福音書で、別のストーリーとして読むことを好むようです。そう読めば、この矛盾と見えることは問題にする必要がないことになります。
しかし、キリスト教信仰の根本は「イエスは実在した人物である」ということです。マルコ福音書はマルコ福音書、ルカ福音書はルカ福音書としてきちんと読んだ上で、やはり整合性を考える必要があります。2つの福音書は、同じ人物について書いているのです。別のものとして読めばいいという態度は、福音書の霊的洞察に富んではいるが、結局はフィクションとして読むことになります。それではキリスト信仰の根幹が揺るぎます。
〇 マリア様は、確かにイエス様が神から特別の使命を与えられているということを悟っていたでしょう。しかし、その悟りはまだ揺るぎのないものではなかったのです。それはマリア様にとって恥ではありません。
息子が騒ぎの源となっていること、特に尊敬されている宗教的指導者たちと対立していることを聞かされて、時に動揺したとしても不思議ではありません。全てのキリスト者がそうであるように、マリア様のイエス理解と確信も次第に育っていったのです。
そう考えると、ルカ福音書は、マリア様の理解と確信に重点を置いて描いたものです。一方、マルコ福音書は、マリア様の平凡な母としての憂慮に焦点を当ているのです。二つの福音書に矛盾と云うほどの食い違いはありません。書いてないことがあるだけです。
〇 「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
エルサレムから下ってきた律法学者たちが問題にしたのは、イエスが実際に悪霊を追い出したか、どうかではありません。悪霊を追い出したのは事実だという前提の上で、イエスがどんな力でそれを成し遂げたのかを問題にしたのです。悪霊の頭、ベルゼブルの力によるのか、それとも神の力によるのか。そして、彼らは悪霊の頭の力によるものだと断定したのです。
彼らも、心の奥底では、「イエスのなさったことは良いことである」、「神の力によるかもしれない」と思っていたのではないでしょうか。しかし、偏見や思い込みのため、また政治的な考慮や忖度のために、心の奥底では本当に知っていることをあえて否定したのではないでしょうか。
イエスは、それを「聖霊を冒涜する」と言ったのです。無知や未熟のために間違ったことを真理として主張することは赦されてよいことです。しかし、本当は分かっていることを、あえて否定することは赦されない罪である。
イエスは「はっきり言っておく」 (アーメン、アーメン、まことに私は言う」 という表現で、この真理を強調しています。
倫理神学では、「良心の問題」として扱われる問題です。主張したことが、結果的に間違いだったったとしても、本人が神の前に、心の底から確信していることであれば、赦されるということです。主観的確信があるだけではなく、 然るべき人に相談した上で、という 条件があります。難しい問題なのです。
〇 「自分は本当は分かっているのではないか。」これを自分で判定するのは難しいことに違いありません。人間は自分を騙す能力を持っているからです。
2019年に、池袋の暴走事故で11人が死傷し、母子が死んだ事件で、加害者の老人は、ギリギリまで、私は正しい運転をした、自動車が正しく作動しなかったのだと主張していました。世間は加害者が自分を守るために嘘をついているのだと思ったようですが、私は加害者は本当のことを言ってる「つもり」だったのではないかと思いました。しかし、心の奥では自分が運転を誤ったのだということを「知っている」のではないかとも思いました。
彼は最後には自分が運転を誤ったことを認めて、控訴せず、刑に服したようです。しかし、本当に認めたのか、それとも、これ以上の抵抗は不利だと思ったのかは分かりません。
〇 皆さんにも、これは経験があるのではないかと思います。子供の頃、親にいたずらを咎められて、「 僕はそんなことをやっていない」と主張する。主張してるうちに、なんだか自分でも、本当にやっていないような気がしてくる。しかし、心の奥ではうっすらと、自分はやったのだと分かっている。
1回、2回、3回、そういう自己欺瞞があるのはやむを得ないことです。しかし、それが癖になってしまうと、致命傷になります。こういう癖は他人には分かってしまうもので、口には出さなくても、人に信用されなくなります。そして何より、偽りの人生を歩むことになります。誤りがあるとしても、自己の確信のうちに立つ人生を歩めなくなります。イエスが「聖霊を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われたのは、そのことだと思います。
マリア様は、これ以後、マルコ福音書の中に姿を現しません。マリア様は、自己欺瞞のない人だったと思います。最初は、当時のユダヤ教が当然としたことを当然と思っていたでしょう。それでイエスの行動に動転して、取り押さえに行ったこともあったでしょう。しかし、イエス様の言われること、なさることを素直に見聞きしているうちに、次第に、イエス様の本当の使命に理解に達したと思います。
〇 年間主日の第一朗読(旧約聖書)は、その日の福音朗読に合わせて選ばれます。
この日の第一朗読に、創世記のアダムとエバの記事が選ばれているのは、自己欺瞞ということに関わっていると思います。
「あの木の実だけは食べるな」と言われれば、かえって食べてみたくなるのは人の常です。その誘惑に屈して、食べてしまったのはそれほど大きな罪ではないと思います。しかし、その後が悪い。
神様に「取って食べるな と命じた木から食べたのか」と問い詰められて、アダムは「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えました。この答えは全くの嘘ではありません。彼はそう思っていたでしょう。
しかし、アダムは心の底では、「食べたのは、他ならぬ私の意志である」ということも知っていたはずです。この不誠実さが、人類のその後の歩みに大きな歪みをもたらしたと思います。
「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」
「私は神の御心を行っている」と言い切れる人はないはずです。しかし、自己欺瞞を去って、いま自分が置かれてる状況の中で、神の御心を精一杯、「行おうとする」人こそイエスの兄弟、姉妹、母 なのです。
(了)