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三位一体の主日(B年)の説教

マタイ28章16~20節

◆ 説教の本文

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。」

〇 典礼の本筋は、イエス・キリストの「救いの出来事」を記念するということにあります。数多い聖人の記念日は脇筋です。マリアの祝日や記念日も、少数を除いて(聖母の訪問など)、ほとんどは脇筋です。

今日、祝う「三位一体の祝日」は神学的祝日とか、idea feast と呼ばれます。神学的と言っても 、学者だけが集まって神学的議論をするわけではありません。教会が「三位一体」と呼んできた問題領域について、1年に一度、皆で考えてみようという日だと思います。

〇 三位一体が、私たちを戸惑わせる一つの理由は、御父と御子そして聖霊のはっきりとした役割分担がないらしいということです。そうであれば、話としては分かりやすかったでしょう。

イエスは天に昇られて、人間とは連絡を取られなくなる。その後は、聖霊がイエスのエージェントとなって、人間との連絡係となる・・。これなら分かりやすい。しかし、新約聖書によれば、昇天の後も、イエスは人間の間におられ、人間と話し合われるのです。それは私たちの実感でもあります。

御父は超越的な世界に住まわれ、 一人一人の人間とは直接かかわらない。それはイエス・キリストに委ねられる・・。 それも分かりやすいでしょう。 しかし、御父は 一人一人の人間にも親しく語りかけてくださる方でもあります。

結局のところ、どうなんだと言いたくなります。父と子と聖霊、どなたに祈っても、同じなのことになるのか。perichoresis (ペリコレーシス) という聞き慣れない神学用語は、その辺りの事情を表現するものです。「三位一体の相互内在」とか、「三位一体の相互嵌入」と訳されます。

〇 皆さんに言っておきたいことは、三位一体について思い悩む必要はないということです。

三位一体の神秘は、キリスト教信仰の最奥と言われています。教会がこの問題を長く考えてきたのには理由があります。決して、どうでもいい問題、論理の遊びではありません。

しかし、私たちが救われるためには、イエス・キリストという方をよく知り、その教えに従おうと努力するということです。三位一体が理解できなくても、神の国には入れるのです!

イエス・キリストご自身がそう言っておられます。

〇 最近ある神学者(John Stott)の本を読んで気づかされましたが、イエス・キリストという方は、謙遜を弟子たちに教えられたが、ご本人は全く謙遜ではなかった。「俺が」「俺が」 と、ご自分の重要性を打ち出された方です。それが嫌味や傲慢に聞こえないのはさすがですが、人間が同じことをやったら、どんなに功績が大きくても反発されて、友だちがいなくなったでしょう。

「私が命のパンである。私のもとに来るものは、決して飢えることがなく、 私を信じるものは決して渇くことがない」(ヨハネ6.35)

「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11.25)

イエスには一方で、御父や聖霊を立てる謙虚な言葉もあります。しかし、こういう自己主張の強い言葉が、確かに福音書のあちこちに散りばめられています。特に、ヨハネ福音書の「私は〇〇である」I Am statement はそうです。

キリスト者とは、イエス・キリストの言われた言葉を信じる者ですから、これらの自己主張の言葉も、そのまま信じるべきです。

〇 しかし、イエス・キリストをさらによく知るために、聖霊や御父のことも少しずつ分かってくれば、それも良いことです。

去年の三位一体の祝日の説教で、「大きなお屋敷に住む家族」という喩えを話してみましたが、なかなか好評だったので、もう一度話してみます。

私の実家は、神戸市の御影というところです。阪急電鉄の山側の、六甲から西宮にかけては大きなお屋敷がたくさんあります。実家のすぐ近くは、武田製薬の創業者の屋敷でした。武田長兵衛という名を代々受け継いでいるようです。これは本当に大きなお屋敷でした。この大きなお屋敷の奥では、どういう人が、どういう生活を送っているのだろうと好奇心をかき立てられたものです。

大きな鉄の門は普段は閉じられています。たまに開いて、そこから立派な自動車が出てくることもありました。その機会に、門からちょっと中が見えるのですが、あまりにも奥深いので、人の姿も家も見えませんでした。

ここからは、私の想像です。

私は長い間、御影に住んでいて、この家の前が通学路だったので、何度も通りました。ある日、大きな門の前をいつものように歩いていると、その家から一人の男性が出てきました。何度も、その男性と出会うので、ちょっと立ち話をるようになりました。そして、何年も経つと、ずいぶん立ち入った話もするようになりました。しかし、「中に入ってお茶でもどうですか」とは言ってくれませんでした。
一緒に映画に行ったり、町内清掃に参加する。そうなると、この人について、もう少しバックグラウンドを知りたくなります。知らなくてもいいんだけれど、ちょっと知りたくなります。この大きな家から、髭を生やしたおじいさんや、若い飄々とした男性が出てくるのを見ることがあります。
「あの人はどなたですか」と聞いたり、紹介されたり。
「どういう風に一緒に暮らしておられるんですか」と尋ねたり。

実際にこういうことがあったのではありません。イエス・キリストを知ると、少しずつ御父、聖霊も分かってくるということの喩えとして話してみました。
                           (了)