「日生は終いじゃ」ない
赤穂は赤穂でいいのだけれど、赤穂のおすすめのポイントの一つは、隣の街もとても素敵というところにある。
赤穂に来た友達は、「思ってたより街ですね!」というくらいには街で「ちょうどいいサイズ」の田舎だ。もう少し田舎気分を味わいたければ少しドライブすれば、すぐに味わうことができる。
兵庫県の方向にトンネルを抜けて10分くらいの距離に坂越(さこし)という街がある。坂越には、海岸があったり少し山を登って見晴らしのいい境内(けいだい)があるお寺がある。牡蠣で有名で、海岸沿いには牡蠣小屋が軒を連ねている。
その反対方向、岡山の方に少し車でいくと日生という兵庫県と岡山の県境の町がある。日生は小さな漁村であなごと牡蠣が名産だ。日生にも海の市場があり新鮮な魚を買うことができる。
いずれも目立った観光地ではないけれど、海なしの京都で育った私たちからすると少し車で行くだけで海の街に行けるのは、旅行気分で楽しかったし、しょっちゅう出かけている。
行ったところで、結局ひたすら散歩して猫に話しかけての繰り返し。
それでも二人でゆっくりリラックスした時間を過ごせるのは本当に久しぶりだったし、妻の調子も少しずつマシになっているようだった。妻を心配する声も多く聴かれるので、今日はそんなエピソードを記しておきたい。
ある日、日生にいつものように遊びに行って小腹を満たすためスーパーマーケットに立ち寄ったときのこと。
スーパーの前に雑然と置かれた椅子におばぁさんが座っていた。真夏(8月8日)の突き刺すような日差しの中、彼女はオロナミンC、片手に休憩し、とてもいい感じ。誰かの家で不要になって運び込まれたみたいな椅子は、それほど古くないはずなのに海風と眩い日光にたっぷりとさらされて随分と年季が入っているように見えた。
車を止めてスーパーに入ろうとする私たちを突然、おばぁさんが呼び止めた。
「にぃちゃん、にぃちゃん」
「ん?・・・・こんにちは」
あまりにしゃがれて椅子と同じくらい年季の入ったおばぁさんの声を自分たちに向けられたものだと認識するのに時間を要した。
「京都からきたんか?」
私たちの車のナンバーを見て京都からの観光客と思って声をかけてくれたらしい。
おばぁさんは、旦那さんが亡くなって寂しい話、京都にお墓があるけどコロナで行けていない話、娘さんが大阪や倉敷に住んで知る話、赤穂に若い頃よく遊びに行った話など一通り聴かせてくれて
「日生は終いじゃ!」
と
嘆き出した。
家を買ったが、売るに売れずに離れられないから失敗した、と。
旅行気分でやってきた私たちからすると日生はとてもいいところだけど、長く住んでいる人たちの実感としてはそうらしい。しばらく話しておばぁさんと別れスーパーで買い物をしようと思ったがお惣菜はすっからかんでお腹を満たすことは叶わなかった。
おばぁさんと別れた後
「ああいう人の話は、とことん聞くと決めた」
と妻はゆるやかに決意を表明していた。
京都で見知らぬ人とコミュニケーションを嫌っていた妻に転地療養で少し心境の変化があったようだった。
全くの余談だが、コロナ真っ盛りのこの時期にもかかわらず、ひとしきり話したおばぁさんがまったくマスクをしている気配がなかったことを最後に追記しておきたいと思う。