真実を求める傍らで囁く「己の闇」と向き合え【マトリックス レザレクションズ】
「情報コンテンツ」という新たな価値創出について
世の中のビジネスを分類すると「快楽を供給する」か「痛みを取り除くか」の二択が大きく占めて成り立っています。衣食住やインフラが一定の基準を満たしている社会になると「無いもの・必要なもの」を提供する物質的な豊かさが供給されます。そして、新たな価値創出には「より豊かな人生・学びのために『これ』が必要である」という商いが掲げられるようになりました。
その価値を示すためには客層が抱えている「フラストレーション」を意識させて「まるで自分たちが解消できている」ようなコンテンツ提供が求められる。そのビジネスコンテンツが「情報」となり、デジタル上で発信者たちが様々な姿かたちで活動しているのが今の社会です。
何かを「知りたい」とは「価値が生まれている」こと。「知りたいこと」はいつの間にか自ずと「見たいもの」に変質している。
必ず誰かから、その欲望に沿った「価値提供」が施されていることを、私たちは念頭に置かなければならない。
「フェイク」という人間心理に左右される言葉の意味を考えろ
最近「リアルフォロワー」という話が挙がりました。社交辞令的な繋がりばかりでフォロワーが少ないという自嘲的な言葉の受け取り方をされる方もいます。確かに、そういった側面もありますがそうではない。「イイネ・リポスト・インプレッション数(閲覧数)」「再生数」「フォロワー数・チャンネル登録者数」といった「影響力の指標」そこに加えて「アカウント運用」そのものが「商品」として取引されていることは御存じですか。
人間にとって無数の繋がりや刺激に晒されていることで何が正しいのかわからなくなる中、一番楽な方法とは自分にとって「口当たりの良い物」を取り入れること、そしてそれ以外を「遮断」すること。そうして、同質性の高いものを身に纏おうとする。
「フェイク」を言葉として知っていると言いながら、私たちはその言葉が適用されている「現実に適用する」ことができていない。その人の心理状態で何を「フェイク」とするのか意味が変わってしまう危うさに、私たちは目を逸らし続けている。
戒めを兼ねて伝えておくが「本当に他人の為に」活動するなら「アイツが言ってたアレがああ言ってた」と無責任な拡散お祭り騒ぎし、希薄な責任感による都合の良いコミュニティ形成なんてするわけがない。だが、皮肉なことにSNS運用で「稼げるコンテンツ」として教育される手合いはこういうものだから注意してほしい。
文章や画像、プロフィールはその人の「生存」を証明している物なのか?
「他人」と関わろうとしているか?
無力な一般人を装いながら
日本語が不自由言葉遣いや言動が扇動的かつ芝居がかったり勿体ぶった言い回しなど、違和感はないか?発信者としての信頼を担保しない「拡散・受け売り」ではないか。自らのことを語ろうとしているかどうか。
発信全てがトレンドに沿った「情報」を説いてないか?
自分もそういう仕事に手を付けてしまったことがあるから非常に心苦しいし、だからこそ言っておかなければならないが、俗にいうインプレゾンビという手当たり次第インプレッション数を稼ごうとする「便乗」によるSNS運用や代行に手を染めると本当に感覚がマヒする。
世間で話題になっている事柄について「マイノリティ」やら「真実」を名乗りながら目立つこと、そのためなら普段見せていた良識や正しさをかなぐり捨てて、根拠も整合性も論理性も無視した曲解を織り交ぜ、二極化する大衆に迎合的な話をするスタンスを取って注目を集める。
古来から続く、全体主義に基づいた善悪二元論による分断が「金」になる時代なのだ。
「教育」「歴史・社会問題」「事件」といった繊細なテーマすら、デジタル上の空間で膨大な「個人」から発信され続けていることの楽観視。「無料コンテンツ」がこの世にあると錯覚している私たちの浅ましい心の隙間を埋める一面から目を背けているなど、私たちが摂取している情報化社会における「情報」とは、極めて「自己満足的な快楽」に満ち溢れ、依存性が高いことを自覚する必要がある。
ネットで情報屋やスパイごっこに興じるのは誰でも楽しい時期はあるが、今は笑えない。こういうコンテンツを営むものに一度手を付けて欲望に取り込まれると、身も心も腐り果てる時代と化したから。
現実の出来事やグレーゾーンである難題をネタに触れ回って注目を集めることが、どれだけ醜悪で無責任且つ悪質なことなのか「想像」できないから分かっていない。醜い自己顕示欲に覆われた姿を自覚すれば、良心も葛藤も無い在り方に反吐が出るようになるが、周りにおだてられ、なおかつ金を得ながら仲間がいることに味を占めると、そのまま突き進むしかないのだ。
相手にする人がいるからマネタイズとして成り立ってしまう世に問題があるのも確かだが根底にあるのは道具を扱う「人間性」の問題に過ぎない。
いわゆる情報リテラシーとして「情報」そのものや「発信者」に対する「免疫」を持たなければ、それに依存しながら自分たちに都合の良い世界観を形成してしまう。それが「エコーチェンバー現象」です。類似の意見が「反射・増幅」され、対立意見などがかき消されてしまうことを指し、特にデジタル空間では特定のキーワード、レコメンドアルゴリズムによって、自分が共感したいもの、リアクションしやすい意見や都合の良い意見がタイムラインに表示されるようになる。
今や「低評価数」は可視化されないようになり、意に沿わない他人のコメントすら黙殺することが可能です。人間が日夜行っているこの「馴れ合いの性質」から閲覧あるいは「イイネ」など高評価が押される度に「誰かの『コンテンツ』」が浮上する歪みが生まれています。何を「真実」か「嘘」だと断じたいなら、その欲望に寄り添った人を支持してしまうし「誰か」との繋がりを求めている者にこそ、耳心地の良い情報は心を蝕む。
そうして口当たりの良い言葉に依存しながら、人々を束ねながら創出されようとしている「自分達の権威付け」には目を逸らすようになる。気に食わない主張には価値がない、意見の合わないという人間は無視すればそれで気が済みます。自分が辿る情報筋こそが「真実」であると信じて疑わなくなるような「情報」に触れているなら、それは自分が学びを得ているという錯覚で「自己肯定感」を提供する情報コンテンツの「サービスの成果」と言っていいです。
「思考ウィルス」に侵されるということ
こういう社会が抱える問題や時事的なトピックや予知、有名な事件や陰謀等のいわゆる「真実」という題材は古今東西、発信する側に立ったり意識しなければサラリーマンは知る由がありませんが、クラウドワークスなどのフリーランス等の雇われ業者に向けられた案件として本当に多い。(調査、文章・画像・動画編集、代行、運用etc)
情報そのものを取り扱うYoutuberやインフルエンサーはこれらを取り纏めて積極的に発信する。何故なら、どんな題材でもエビデンスや中立性に欠けて、自分の裡から何も生み出していない「継ぎ接ぎ状態」でも、それを見たいし信じる人が現れる彼らが正当性を担保し、注目を集められるから。世の中の潮流に合わせて右に倣えと『○○の闇・真実』が氾濫し、まるで世界を股に掛けているかのように情報屋気取りのリークが提供されているならメディア批判する前にそこに疑問を持ち、冷静な距離感を保つことが本来必要です。情報の出所を確かめようとせずに、一次情報を確かめようとしないで話につきっきりの時点で、それは娯楽に過ぎません。
あらゆる情報収集をしている人間の初期衝動にあたるのは「不確実性」を解消。そして「幸せや成功を手にしたい/させたい」という思いから。
しかし、その人たちに向けた「誰かの言葉」が封入されて提供される『情報』は、宗教思想から巧妙に宗教色を抜きながら、丁寧にパッケージされた「同質の思想背景」が含まれていることに注意しなければなりません。
こういった情報に右往左往させられる一方で、「情報」そのものを利用した浅ましい人間の欲望とその歪ませ方を遥か昔に、フィリップ・K・ディックをはじめとする古典文学の作者でもSF作品のクリエイター・アーティスト達は送り出した作品と共に見抜いて利便性と共に腐敗する克己心を促していたわけで、やっぱり彼らは凄い。
「自分は人が知らない『答え』を知っている」という心理状態に陥ること。そうして口にされる言葉は、おそらく話を理解するのに「必要な前知識」が足りないから同じものを見ろと当人たちは言いたいのでしょうが、当人の無自覚に潜んでいる内面性の正体として「この情報(真実)を知っているから、自分は価値がある人間なのだ」という「自己肯定感」と「他者に対する優越性」が発露される。
そしてそれが、あらゆるビジネスで「集客」するための常套句であり、「宗教的性質」と同じ定義であると、私たちに自覚はまったくありません。
ありとあらゆる「真実(答え)」が世界に氾濫され、他者への優越感、それを見せびらかす一時的な快楽物質。
そして無意識的に形成されるコミュニティへの帰属意識(フォロワー)。
これが世の中に発信される「情報コンテンツ」の正体です。
啓蒙や学びではなく「自己肯定感」という都合の良いサービス。そこから「誰かの語る言葉」に対する「依存」が始まると、それは自尊心を自ら棄てた「同質化」であり自覚なき「洗脳」と化します。
そして、それを自ら警鐘したのがあの映画でした。
元祖「目覚めろ」から「自虐と社会風刺」に徹した復活作
いきなり話を変えますが、映画「マトリックス レザレクションズ」の中では「アナリスト(精神分析医)」という登場人物が出てきましたね。主人公ネオに寄り添って治療するフリをして、実際はネオを制御しながら監視する役割を担っている存在です。
そして、彼の下では、多くの人間がビルから墜落する事も厭わないでネオたちを襲う。生きているのにゾンビのように意志が見えない「ボット」と化し、自我を持ったネオたちを攻撃するシーン。
これは監督による痛烈な風刺で、自分自身の生と向き合うことより無思考で誰かの言葉を受け入れ、正義を振りかざして執拗に毎日戦うに足る何かがないか探し続けている人間たちのこと。
かつてシリーズ1作目で、自らの意思で現実より仮想世界を選んだサイファーというキャラがいましたが、今ではこのように人間は誰かのボットと成り果てて自分の人生を棄てているという痛烈な皮肉を送り出していたわけです。
何かを「異常」であると本人に語り聞かせる一方で「正常」を説く。
そうして、自由意志を尊重しているように見せかけながら「二者択一」の思考誘導を仕掛ける。アナリストの手口は個人の自由意志を知らないところで密かに奪い去ることにあります。
皮肉にも、これはかつてモーフィアス達が用いていたマトリックスからの覚醒と全く同じ手口です。
しかし、かつてネオを現実世界に覚醒させようとした二択の「赤」と「青」の薬は、他者に向けた影響力の志向として「目覚めろ」という言葉は我々の現実では「ミーム」に変わり果ててしまった。
だから、ネオを導いてきた「預言者(オラクル)」亡き時代と化したわけです。人生に寄り添って見せながら他人や言葉を支配する「味方」こそ、現実の情報社会において創出され続けている権力の正体。
味方の顔をしてメンタルヘルスをケアに徹しながら背中を小突いてくること(ナッジ)こそが、役割や敵を与えて私たちの心の在り方や望みを直視させない、幸せに向き合わせない本当の脅威。
本当に必要なのは目覚めの薬である「赤」でも「青」でもない。結論を急ぐあまりに複雑で常に迷い込んでしまう人間社会のカオスをそのまま受け入れ、自分を「中間地点」に引き戻してくれる「他人」であり、「年老いたネオとトリニティ」が「人間」として本当の人生と幸せを取り戻す話に帰結したわけですね。
こういった都合の良い解釈によって人間たちの欲望に歪められたもの。
監督にとって許し難くなった贋作だらけの世界を形容しようとして、かつてのオマージュを「違和感」として切り捨てて「再提示」されたのが本作の肝だったというのが復活したシリーズ続編のテーマだったわけですが、これは作品解説としてまたいつかお話しします。
現実でこのシリーズ作品のフレーズが持て囃されてしまったように、残念ながら「正しい」「真実」「予言」「悪」「おかしい」と言いながら「答え」があると括って「確信できる何か(誰か)」を求めたがるなど
「自分」というアイデンティティを確立する術を知らない日本人との親和性が恐ろしく高かったです。
答えを求めるが故の「他責思考」
これは甘美で、本当に危うい兆候です。
あらゆる「答え」はこれだという「真実」を自らのアイデンティティとして依拠し、異なる意見や考えを持った他人と向き合えなくなる。
口では「自由」というものを掲げて見せながら、その精神は口当たりの良い「自分の中の現実(仮想空間)」に逃げ込む。
「答え」を探し求めようとするあまり、自分以外に身を委ねてしまった時、それは「他責思考」に繋がり「何か」と「同質化」することで自分を見失う。
そして、敵を見出そうとして止まない「報復心」によって団結して誰かと繋がろうとすると古来からの人類の闇に囚われます。
それで得をするのは誰か?
今映っている画面の広告とアカウントを見てみるといいアンダーソン君。