「真善美」を見失った現代人の盲信の危うさ【認知領域の攻撃】
現代ではサイバー空間における情報戦やフェイク、単なる情報システムを標的とした特定の誰かや企業に対する攻勢からシフトし、国家アクターによる情報操作型のサイバー攻撃によって、サイバー空間と接続された認知領域そのものが攻撃対象となる時代というのもあります。
ここから更に厄介なことに「知りたい」ということは「情報の価値が生まれている」ということ。そして、そのニーズに向けられて、自分の秘めた欲望を叶えようと「知りたいこと」はいつの間にか「見たいもの」に変質している錯誤が情報化社会を生きる「人間」を完全に狂わせる一因となりました。
「認知領域の戦場」における「戦争屋」と「数字」争い。
自分のもとに流れてくる情報は“正しいに違いない”という意識は誰もが持ちうる感覚だと言われている。そして、怒りや不安の感情が高まると「伝えた方がいい」「この人は信頼できる」と瞬間的に感じてしまう。それが発信者の疑似家族として地盤になると露にも思わずに。
「フェイク」を言葉として知ってると言いながら「言葉の意味」を考えられなくなり、自分が摂取している情報筋こそが「真実」であると疑わなくなる認知の危うさは筆者が繰り返してきた通り。
情報リテラシーという免疫を持たなければ、それに依存しながら自分たちに都合の良い世界観を形成してしまう危険があります。
格差拡大で世界にエリートへの怨嗟が満ち「置き去りにされた人々」の閉塞感は強い。そして同時に「自分は悪くない」という誘惑は強まるばかりで「マスコミは偏向しているがネットには正しい情報がある」と信じ、フィルターバブルによってどこかに辿り着ける真実というものがあると錯覚する。そうして、自分は騙されてたと被害者意識や義憤と言った初期衝動を利用し、それらをユーザーとして集めて金に変えようとする商材屋に絡め取られていく。自分の気分を損ねたらそれは絶対的に尊重されるべきで、それに対する仕返しや吊るし上げは全肯定されるべきって思想は蔓延しているからこそ自分が被害者に位置する話が大好きで、その辻褄合わせに情報を集めるのはなんか楽しくなってしまう。信じたい物調べるとアルゴリズムでドンドンとこれは価値あるものだと錯覚してハマっていく「ラビットホール」を理解していないと、たとえ善意があっても心を腐らせてしまうことこそが現代社会の闇の一つです。
思想や個人の価値観を開陳することは別に問題じゃないとは思ってるし、自由にやればいい。ただ、エコーチェンバーでギリギリだった人同士が情報によって繋がってしまうことで居場所として見出した馴れ合いコミュニティを正当化している一方で、何ら責任を伴っていないお喋り活動に精を出して「権威」と「課金力」を高めている「疑似家族」が乱立している。
「日本人が知らない真実」「隠されてきた真実」「マスコミが報道しない真実」こういうサムネイル見出しが小馬鹿にしているはずの週刊誌の延長に加えて、タダでさえ「サイバープロパガンダ」として自分の考えに都合の悪い話は聞く耳持たない人々に志向された「編集」を受け、旧世紀から続いているプロパガンダの渦中として、いくら諭されても延々平行線となる環境が形成されようとしている中、ややこしいことに情報を営んで「味方」のような顔をしながら自分の利益をせしめるインプレゾンビもとい「戦争屋(ビジネスマン)」が紛れ込むことを念頭に置かなければならない。
仮にある程度の事実を捉えていたとしても、行き着く先は顧客獲得と団結力強化によるコミュニティ拡大、人間の不安と怒りといったネガティブな感情を狙い撃ちしている扇動の実態として「インフルエンサー」という生易しいものではなく、対立が巻き起こるたびにビジネスチャンスを窺っているデジタル上の認知領域を跋扈する「戦争屋」が身近にいるわけです。
改めて意識してみると、どこにでも垂れ流されている終末論と疑似科学と陰謀論で頭がおかしくなりそうですね。考えたりやることがないようにすると、享受している共有物に少しでも不備あると批判して注目を浴びれるコンテンツは本当に強いのです。
「何か」を権威付けて「人を寄せ集める」
「科学的思考法」や「脱構築論」という現代思想に基づいた「仮説と証明」というのは検証可能なデータとロジックといった要素から論じるからこそ、人間は不確かなものから何かを生み出すことができた。
しかしその一方で、学問的な思考法よりも、にわか学問や情報ネタは「幸福・不幸」「イエスかノーか」「敵・味方」「生きるか死か」など要求される敷居が低くてわかりやすいかつ煽情的で常に二項対立という「思考を求めないロジック」に満ち、○○反対という標語で義憤を煽りながら持ち上げられるネタは尽きない。何かを権威付けるコンテンツ作りが目指すものとして「ネガティブな感情」に紐付けるのは自明の理で「滅亡」やら「予言」だの「○○の闇」で似たり寄ったりの受け売りコンテンツが並ぶわけです。今のトレンドは数年前から定期的に繰り返されているリセッションとかですね。
古代からの習わし
例えばノストラダムスが年を明示的に書き込んだ詩で前後何年とかのレベルでも的中したことは一度もないですが、未だに期待感や不安を煽って擦られ続けるなど某ガンダムSEEDで盛大に皮肉られている「人が数多持つ予言の日」が現在進行形でも続いている。
最近のマヤやらどっかの○○族がわざわざ「キリスト」による紀年法である「西暦」を用いて○○年に何が起こるとしているという話も「歴の数え方」に注目してみたら「物は言いよう」というやつだとわかるはず。
当たったように思える事例が人々の記憶に残るから「占い師」や「祈祷師」は誰も止めないバットを振っているわけで、アメリカ版サザエさんである『シンプソンズ』は長年放送している膨大な話数のネタを作る立場に立ってみることを想像してください。クリエイターの皮肉屋ぶりや教養・分析力によるエンタメ力による賜物である作品でそれを讃えるべきなのに、騒ぐキッカケが欲しいだけの発信者に取り上げられ、AI生成動画やフェイクで弄ばれながらもそれにダンマリのまま持て囃されているのは何故か。
最近は大きな恰好の材料がないからと、とりあえず隕石とか大地震とか火山とか、可能性のあるものを何でも並べられやすい日本も自然災害の要素が多いからこそ「数打てば何かが当たる」という明らかに卑しい精神性の食いものにされている。それをスルーして嬉々として食いつこうとする人は少し距離を置いて考えてみたら冷静になるはず。
古来から終末思想が「人を腐らせて堕落させる」と名指しで咎められたのは、そういうことです。
人種の起源といったトピックもあらゆる人類の故郷はアフリカで、結局のところ他民族・多文化な社会をうまく統合しようとして成り立ったのが今の国家であって「純血」なんて存在しない。それに囚われた血統主義というものも本当に危うい。渡来人に限らず「新たな発見」がもたらされ続けている日本も例外ではありません。
「起源」そのものではなく歴史の中で継がれたあるいは培ってきた知恵や技術、今生きている精神性や文化こそが「人間の本質」だと思うのだが、それに目を向けようとせずに分断を扇動するのはなぜか?
やたら血の起源やら敵味方の分別を気にするのがどんな連中か、もう歴史から学んだり承知していた気がしますが「それを広めて真剣に受け止めてくれると喜ぶ輩がいる」という点をスルーしていることを、わざわざ言葉にしなきゃならないのかと正直困惑しています。
そんな血統主義にとっては既存の世界観を否定する非常にセンシティブな領域であるわけですが、これからも技術は否応なく進み、遺伝子治療が進むと身体性や肌の機能を補ったり改善、つまり「ゲノム編集」を生かした格差の是正などが掲げられるようになる。
すると、その技術の恩恵を受けられた人間に対する見方として「人工的な造り物/化け物」呼ばわりするなど確実に二分化されるでしょう。
その時にも、あれはダメだこれはダメだという社会正義を掲げながら我こそはと台頭しようとするイナゴが絶対現れるでしょうし、それが愛国ビジネスの形を保ち続けるかは知りませんが、おそらく自分の寿命を迎える日まで「いつまでやるの?」という日々だろうとは思ってます。
勉強がなぜか「理論武装」となった倒錯
字面そのままでしか物事を読めなかったり人の視点に立とうとすることが無い、「行間」というものを読み取る気が無い、教養を誤魔化そうと暗記式になったり、理解が難しいことを自分好みの解釈に貶めること。これは、知らないことに興味を持って取り組むというものではなく「この問題の『答え』とはそういうものに違いない」という自分を補強するための武装に過ぎません。
信用に値しない「あいつら」で構成されたものは信じない、それに対してSNSやyoutuberは同胞の臭いがする人間、つまり「私たち」の手による媒体だから信じる。「商品案内」や「広告」「ページビュー(インプレッション)数」が映っているPC画面や動画を見ながら真顔でそう思ってしまう。
こういう二元論で物事を考え、個々の事実をあれこれ考えることはあってもそういう「考え方の枠組み」自体を疑うことはない。これがいわゆるネットde真実にハマってしまうロジックで、全肯定か全否定の二択を突きつけられた欲望に沿った「答え」を真に受けるあまりに根本的な「情報の取捨選択」が重要でその「判断材料が豊富」だからネットは有用なのだと古来からの教えを忘却している。
老若男女にスマホが普及したことで、それを知らない層が大多数となってしまった時代というわけでもありますが、それ以上に「ネットで失敗したり苦しめられた人生経験が無い」というのも大きいかもしれません。
情弱であれと商人は笑う
「人のネガティブな感情を煽って情緒不安定にさせる」ことは注目を集めて儲かる手法としてあまり好きな言葉ではないですが「情弱ビジネス」としてマニュアルや法則は行き渡っていますし、昔ならTVに出る算段を立てたり関連書籍を売るのが、 今ならそれを唱えながらSNSでページビュー数を集めて商品やYoutubeに案内して稼げる。
自分の中のスケールに圧縮して捉えるっていうのも受け手側なら自由ですが「皆が知らないことを自分は知ってて教えられるのだ」というエゴや優越感に呑まれながら、何ら責任を負おうこともない「話者」が現れているのは本当に危険で、何より「その人自身」を追い詰めて不幸に陥れます。
客観的な事実よりも「共感してくれる人」にだけ判ってもらえれば力を得る「悪魔の証明」で学会や企業の承認を受けなくても大々的に発信できる現代では一層力を増しました。
言葉に乗っ取って寄生する似非科学やスピリチュアルもそこを起点に自分は何か「意義のあることを学んでいる」という錯覚に陥るものとして稼げるコンテンツに仕立て上げられて、それが権威付けられるというメディアのことをどうこう言える次元ではない歪んだ話があるわけです。そういう場所です。
誰かの肩を持つスタンス持つのは構わないし、人を見る目がなかった時は恥をかいて学びを得られる。が、自分達には意義があって正しい存在なのだという「馴れ合い」と「厚顔無恥」が成り立つからこそ「X」が「バカッター」と称されてきた所以だと今一度思い返しましょう。
「翻訳」と称されたら「原文」を気にも留めないで「字幕」を読んでそれを真に受けている自分の浅慮を危惧するべきなのです。
日本人の幸福リテラシーの欠如を利用した認知攻撃
私たちがそれだけ「物事の背景」や「思考法」ではなく「数値」「丸暗記」でしか科学や物事の理解が計られてない認知領域の非力さを表しており、産業革命から文明開化、世の中を便利にするニーズを満たす時代が終わって各々の幸福が何かを追求する舵取りが始まってるのに「自分の幸福」すら何なのか「言語化できない/しようとしない合わせ鏡」が、今の私たちを取り巻いている「閉塞感の正体」であり、停滞なのだと思います。
今はあらゆるコンテンツに「集合知」の力が示される時代になって、ありとあらゆる多種多様な意見を拾い上げて脱構築的に見聞を広めることもできる時代なのに、何かにつけて愚痴やら人生の憂さ晴らしにネットを使って認知領域の荒波に呑まれたり、価値・無価値や敵味方の二項対立に持っていく場合ではなく、それがどれだけ皆さんの時間を止めているのか目を向けて欲しいと思います。