ムーンストラック
彼女に手を引かれてやって来たその通りは、午後の賑わいに埋もれて息すら上手く出来ないようなところだった。人々の声、様々な機械音、建物の内へと誘う流行りの音楽。それに時たま、泣き叫ぶ幼児の高音が響く。
太陽光と明るい空に視線を奪われがちなイルミネーションがほんの少しだけ哀れで、それらが必死に照らしているショーウィンドウを眺めてみた。
けれどもそんな努力など必要ないと言わんばかりに、やたらに明滅する輝きが阿呆らしくなる明るさでもって網膜を刺激するから。
……可愛気、ないよなぁ。
そんな一方的な感想とともに、僕は無駄な努力を止めたのだった。
「ねぇ、こっちこっち!」
「……ん」
「これ可愛いよねぇ、みんなも持っててさぁ」
「そうなんだ」
「あ、あっちも見てきていい? ちょっと、ソコで待ってて」
「……ん」
先程から続く一連のこのやり取りは、ひどく似たり寄ったりで徐々に飽き飽きしてくる。
普段自分では見ない物まで沢山見ることが出来るから、初めこそ新鮮な感覚を覚えたものの……同じような状況が、同じようなテンションで、小一時間も続けば流石に明るい声なんて出ない。
僕は元々短気だから。ずっと変わらないということが、苦手でしょうがないのだ。おまけに少し風邪気味で、苛々の速度も五割増し。
彼女が離れたこの隙に、こっそり帰ってしまおうか?
——呆れるぐらい短絡的な考えが、閉じた瞼の裏をよぎった。
通り過ぎる人の流れを感じ、そろりと瞼を押し上げる。埃と不純物にまみれたこの街の隅っこでさえも、冬の空気は澄んでいると感じられる。
それなら多分、この身体の周りを巡る空気だって、実は美しいもんなのだろう。例え、余計な声や騒音に彩られていても。
頭の芯が熱を持つ。五感が全て、ぼうっとする。冷覚だけが敏感で。
……あぁ、僕は風邪を引いているんだ。
初めて風邪という現象が、確かな手触りを持っている風に感じられた。こんなところで、ただ彼女を待って突っ立っているだけでは、確かに風邪も悪化するだろうなぁ。
そうは思えるのだけれど、この身体は動かない。微動だにしない。
それ以前に、自分が本当に立っているのかも、もうはっきりしない。僕はきちんと地面に両足を着けているんだろうか。ぺたりと座り込んではいないだろうか。まして、全身で歩道と仲良しこよしだとか、恥ずかしい事態になってはいないだろうか。
僕に、確かめる術なんてない。例え確かめようとしたって、今の状態では理解することも出来ないだろう。取り止めなどという代物を、まさしく持たない思考回路。
——彼女は、まだ、帰って来ない。
冷え切った瞬きを数回試みる。自分がどういう状態にあるのか、何も確認しないのは明らかにまずいと思って。今のところ、自分を中心とした笑いが起きていないのを見ると、どうやら姿勢には問題ないらしいけれど。
凍え切っているくせに熱を持ち、上手に動かない瞼を抉じ開ける。角度の自覚を持たない首を、恐らく前方だろうと思われる方向に向ける。潤んでぼやけた視界は、つい先刻よりもイルミネーションを綺麗に見せてくれた。
その中で、僕と視線を交えた、存在。
歩道と車道を飛び越して、ガラスを隔てた向こう側。はにかむように、柔らかな微笑を浮かべた……その、存在。
この長い距離を跨いでもなお、視線は強く交わり続ける。まるでそうすることが至極当然であるように、僕の両眼は貼り付けられて。
綺麗だった。ガラス越しの彼女は、澄み切った冬の空気にも負けないくらい……いや、それよりもずっと、綺麗だった。
彼女に、会いに、行こうと思った。
——彼女は、まだ、帰って来ない。
身体全体がとても熱くて、けれど感じるのは凍て付くような寒さだけで、何だか足取りもふわふわとしていて、どうにも現実感がなかったけれど……ただ、彼女の傍に居たいと思った。
絶対に、初対面のはずだ。それでも感じてしまう、ひどく強烈な魅力。
イルミネーションも、太陽も、今だけは消えてしまえ。何もかもを映し出すような無粋な光は、彼女にとっては邪魔なだけだ。
そうだな、もしあの白磁の肌を照らし得る光があるとすればそれは。
青白い、月の光。
そう、青白い、月の光。それ以外には何も、要らない。何も、要らないんだ。
僕は頼りなく歩みを進める途中、高い空を見上げた。……青白い、月は、出ているか?
——彼女は、まだ、帰って来ない。
ビルの壁面で長方形に区切られた空間の中、青白い光を放つ月は己を主張していた。そのいっそ清々しいほど潔い姿に、思わず見とれてしまった。真昼の月は弱々しくも、懸命に照らす。青白いその光でもって、世界を。
そして僕の望み通り、彼女を。
——月の光は、人の気を狂わせてしまうというから。
彼女がすらりと佇んでいる、ガラスの前に辿り着く。綺麗な彼女は文字通り、綺麗な微笑を湛えたまま。
無機質な白磁の肌の奥、煮え滾るような熱を隠し持つ……あの青白い光にしか、触れることを許さぬ熱さ。それに焦がれてしまった僕を、ただの馬鹿だと君は嘲笑う?
僕は今、熱に浮かされていて、酷く、酷く寒いんだ。……もしも今、君に触れることが出来たなら、その熱を僕に、少しだけ分けてくれる?
僕と君とを隔絶する、透明な壁が憎らしい。この固く凍えた壁さえなければ、その形良い指先にも両手を伸ばせるのに。
君を抱き締められるなら、こんな壁など関係ないね。
君を抱き締められるなら、こんな壁など壊せば良い。
君を抱き締めるためだけに、僕はこの壁を壊します。
君を抱き締めるためだけに、僕はこの壁を破ります。
上手く力が入らない、両腕を思い切り振り上げる。君は、僕のそんな姿を見てさえも嘲笑うのですか?
——月の光は、人の気を狂わせてしまうというから。
騒々しい賑わいに満ちたその通りで、怯えの滲む叫びを聞いた気がした。
君は、何に怯えているの?
君は、何故泣いているの?
その愚かな問いの答えは、僕の両腕にくっきりと、禍々しく刻まれていた。
ムーンストラック 終
再掲元:個人誌「色葉言葉(いろはことのは)」2003/11/06
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