あの_光る

あの、光る

「あ」
「え?」
「何か、へばり付いてる」
「……あ」
どこから飛ばされてきたのだろう。
灰色だらけのこの道に、不釣合いなほど鮮やかな黄緑を纏う生き物がいた。

「蟷螂、だね」
「……蟷螂、だな」
「何処から来たんだ、ん?」
「答えるワケないだろ……」
「この辺に公園か何か、あったよねぇ」
「もう少し先にあったような気も」
するけど、あまり覚えてないな。
俺がそう言うよりも先、助手席に座りフロントガラスを凝視する北風(きたかぜ)は、言を継いだ。
「じゃ、其処まで行くよっ」
……誰が運転してると思ってるんだ? 
胸中で、思わず呟いてしまう。それはどうやら、見事に表情に出ていたらしい。隣から俺の顔をちらりと見遣る気配を感じた後、盛大に吹き出す音が聞こえた。

何を思ったか、フロントガラスにしがみ付いている蟷螂を眺めながら思う。
こいつは、コンクリートに覆われたこの街に何を感じているのだろう。もしかしたら、俺達のような人間を恨んだりしてはいないだろうか。金属やその他諸々の塊に、沢山の仲間を殺されてはいないだろうか。
そんな陳腐な考えごとをしていると、記憶の隅に引っかかっていた公園がすぐ目の前まで迫ってきた。
ウィンカーを出し、ミラーを見る。
ブレーキを踏みながら、目視。
左に寄せて車を停めた。蟷螂は相も変わらず、フロントガラスに鎮座したままだ。
「ここだよな?」
「うわ、こんな小さかったっけ? ここ」
……あぁ、あの頃はもっともっと、大きな公園だと思っていた。

一戸建ての住宅にすっかり囲まれて静かな其処は、まるで隠れ家のような公園であまり知られていなかった。先に見つけたのは北風で、誘われ何度か来たと思う。恐らく、片手で足りるくらいの回数だったはずだ。
というのもその直後、俺は父親の転勤で引っ越してしまったのだ。以来、手紙を出すこともなければ彼と会うこともなかった。所謂『幼馴染み』というヤツだ。腐れ縁ともいう。
一人暮らしを始めてすぐに、初めての街を歩いていたら、本気でたまたま、出くわした。
……これが腐れ縁でなければ、何なのか。
顔や身長や其処彼処、成長の跡は見られるものの、全体的な印象は記憶の中にいる幼い彼——何せ、一緒だったのは小学校低学年のときのことだ——とほぼ、一致していて。後から聞けば、向こうも同じことを思っていたらしい。少しムカついた。
そうしていつしか昔のように、暇を見つけては会うようになり。まるで、あの頃と同じ空気を吸っているような気さえする。今では、だいぶ排気ガス臭いけれど。
久々の、そしてひどく懐かしい……北風に偶然出会わなければ、死ぬまで来ることも思い出すこともなかっただろう公園は、小さくて満足に遊具もなくて、すっかり寂れていた。豊富にあるのは、丈の短い雑草と砂利混じりの細かな砂だけ。
何の当てがあったわけでもなく適当に車を走らせていたら、いつの間にやら幼い時間を過ごした街まで俺達の足は届いていた。こんなに、近かったなんて。
フロントガラスにぴたりとへばり付いた気紛れな蟷螂のおかげで、この公園に降り立つ。一歩踏み出した刹那、夏の蒸し暑い空気が両肺にずるりと入り込んだ。たっぷりと湿気を含んだそれは、身体中から更に水分を取り込もうとする。
太陽の光と熱が丸ごとぶちまけられた、気の遠くなるほどに遠い真昼の空。最早点々にしか見えない鳥が数羽、気持ち良さそうに浮かんでいる。そんなところを飛んでいたら、余計に暑くないのだろうか。じりじりと音を立てて肌を焼く陽射しから、せめて眼ぐらいは守ろうかと手をかざせば、生々しく内奥が透けた気がした。何とはなしに嫌になって、日陰に行きたいと辺りを見回す。
団扇のたった五分の一にも満たない風を起こすため、無駄なこととは分かっていても、手をぱたぱたと動かしてみる。と、キィキィという微妙な悲鳴が突如、耳に入った。
「……?」
「辻坂(つじさか)ぁ、こっち来いよ、結構涼しいよっ」
悲鳴に聞こえたのは、あまり乗られず錆び付いたブランコの歓声だったのか。

ブランコは、公園の中で唯一豊かな木陰のあるところにひっそりと佇んでいた。木漏れ日、錆び付いた金属の褪めた匂い、ブランコが揺らされるたび響く悲鳴に似た歓声、零れ舞う砂埃、身体に貼り付いてくる熱を伴った湿り気。そんなモノを一緒くたに感じ、そっと眼を閉じる。疲れた気がした。
樹々が造る陰影は、その下に入ると遠目で見るよりもずっと広くて深かった。淡い陰と濃い影が交互に揺れる。頭上からはさわさわ、という葉擦れの音が落ちてくる。
一つしかないこのブランコを、来るたびに取り合ったことを思い出した。少し笑える。小規模の諍いは常にあった。性格の違い、行動の違い、嗜好の違い、全てについて。それでも『腐れ縁』は結局、続いている。一度はあった長い空白も、全く気にならないほどに馴染んだ空気。
些細な衝突をたびたび繰り返していくほうが、妙に馴れ合った末瞬間的に爆発するよりずっといい。強烈な振り子状態にある隣の人物を見て、そんなことを思った。
短時間で汗の滲んだ身体を、時折吹く風が勢い良く冷ましていく。今吸い込めるのは、噎せ返るほどの生命の匂い。今を盛りと萌える、緑。そしてすぐ横、人間の身体が必死に風を斬る気配。

静寂が訪れたのは、次の一瞬。何も感じないのは、何も感じられないのは、暑いせいか?
……そう思って。閉じていた瞼を、一気に押し上げてやる。
其処に見えたのは、全てが確かに動いているのに、全ての流れという流れが薄くぼんやりとした眩い光に包まれ、感じられない世界。

北風はブランコを漕いでいる。
木の枝は思い切り靡いている。
砂場の砂は舞っている。
俺の両眼は、開いている。

此処からは少し離れた公園の中央部、ある存在を感じた。それは相変わらず薄くぼんやりとした眩い光に包まれて、はっきりとは見えなかったけれどその気配だけで理解出来た。
だってそれは。幼かった時間。
だってそれは。見間違えるはずもない、小さな自分と、小さな彼。
歓声をあげて、遊ぶ。
両手を叩いて、笑う。

——此処は、今の自分が還るべき場所ではないのだ。

「……辻坂?」
「……え」
「どうしたんだよ? 急にボーッとして」
「……いや」
何でもない。首を振って伝えるのと同時。
「そういや、蟷螂を逃がしてやろうと思ってたんだよねぇ、オレら」
すっかり忘れてたし、と言外に滲ませ笑う北風には全く悪びれる様子がない。
車までほんの少しのこの距離を、陽射しを受けて歩いた。暑い。
「あ、れ?」
不思議そうな声につられ、フロントガラスを見る。……鮮やかな黄緑を纏う生き物は、もう何処かへと消えていた。


あの、光る 終
再掲元:個人誌「色葉言葉(いろはことのは)」2003/11/06

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