児童養護施設から来ていた2人の男の子との出会いと別れ
1.出会い
「裕くんは落ち着きがないし、友達を叩くし、言うことを聞かないから大変だよ」
大げさなジェスチャーを混ぜながら少し興奮気味に、裕くんがクラスでどれほど悪さをして、どれほど苦労したかを切々と語る愛先生。
春休み中の静まり返った教員室の窓から少し冷たい風が入り込んできて愛先生のサラサラのセミロングの髪がふわっと揺れた。
問題児と言われていた裕くんを前年度受け持った愛先生は私の2歳上で小柄で可愛らしい女性。
某国立大学出身だけあって教員研究報告書などの書類は光景が目の前に浮かぶようなしっかりとした文章を書き、知性を感じさせた。
小学生の読書感想文のような文章を書く私は、恥ずかしい気持ちになりながらよく彼女の書類を読ませてもらっていた。
彼女の口調は柔らかで優しい印象を受けるが、話をしている中で時折どこか冷めたような感じも見受けられた。
一度先生にこう質問したことがある。
「先生はそんなに子供が好きではないですよね?」
「えっ? 分かる?」
驚いた愛先生は少し恥ずかしそうに首をすくめ上目遣いで私をちらっと見た。ピンク色に染まった頬に可愛らしいえくぼが見えた。
「やっぱり…」
幼稚園教諭や保育士になる絶対条件は「子供好きであること」と思っていた私には少し衝撃的な告白だった。
子供が好きではないと辛い仕事。
個人的には「子供が好き」「可愛い」と感じない人には出来ない仕事だと思っている。
だから子供好きではない人がこの仕事を選ぶ意味が分からなかった。
「恵子先生のクラスになった保護者が喜んでいたよ。『子供がいない若い先生に当たらなくて良かった〜』 だって… 「美佳ちゃんのママは『うちの子はみー先生のクラスになった〜 あーっ ハズレた〜』って言ってたみたいだよ。私達みたいに子供がいなくて子育ての経験がない若い先生は保護者からはよく思われないよね…」
美佳ちゃんのママが直接愛先生に、私のクラスで残念だと言ったのだろうか… でもこれ以上怖くて聞けなかったし、詳しく知りたくもなかった。誰からの情報か分からないが、愛先生の親切心からだろう。時々私に聞きたくない情報を教えてくれた。
『子育ての経験もないくせに…』
ーー こういう言葉、地味に傷つく…
知らないほうがいい事がある。子育ての経験があるベテランの先生と比べられてもどう頑張っても勝てるわけがない。
勝ち負けというのもおかしいが、心無い言葉を聞くと余計なことまで想像して落ち込んでしまう。
「裕くんは友達をなぐるしビンタするし。気に入らないと噛むし突き飛ばすし蹴っ飛ばすし…」愛先生は止まらなかった。
私はマグカップに入ったお茶を一口飲んで憂鬱な気持ちをため息とともに吐き出した。
ーーー私はどう裕くんと接したらいいんだろう…
不安でいっぱいになっていた。
やんちゃで友達は叩く蹴る、大人から「問題児」と言われていたややぽっちゃり気味でつぶらな瞳の裕くん。
おとなしくて率先してお手伝いをしてくれる、大人から「良い子」と言われていた体が小さくて少し表情が暗い卓也くん。
性格が全く正反対の2人。
卓也くんも裕くんも実の両親のことをほとんど知らない。
二人は児童養護施設で暮らしている。
卓也くんがどんな家庭環境で育ったかということは聞いていたが、問題行動があるような話は前年度担任だった恵子先生から特に聞いていなかった。
この年、私は、勤続20年以上のベテラン恵子先生と一緒に年長組の担当になった。
恵子先生から学べることは多い。幸運ではあるが、一年間先生と比べられることになる…
胃が痛い日々が続きそうだ…
幸運と不幸…
風に揺れるカーテンを見つめながら考えていた。
ふと園庭に視線を移すと桜の花びらが風が吹くたびにひらひらと舞い降りていた。
◯○゜.∘˚˳*。
2.流血事件
新学期早々、裕くんはやらかしてくれた。
始業式終了後、みんなで簡単な自己紹介をした。
新しいクラス、新しい先生、新しい友達。
どの子もそわそわして興奮と緊張が入り混じり落ち着きがなかった。私は子供達のエネルギーがぶつかり合うのを感じていた。そして少しエネルギーを発散させるために園庭で自由遊びをすることにした。
きゃーきゃー言いながら目を輝かせて走り回る子供達。
私は園庭全体が見渡せる中央から、ブランコ、雲梯、鉄棒と順々に周り、子供達の様子を見守っていた。
ふと砂場にいる裕くんと勇気くんの方に目を向けたその時…
裕くんが勇気くんの頭をシャベルでガッツーん
砂場で山を作っていた勇気くん。内気で友達も少ない勇気くんはクラスの中でほとんど喋らない。勇気くんはあまりに突然のことで何が起こったのか状況を把握できず数秒フリーズしていた。
その横に片方の拳をグーにしてもう片方でシャベルをしっかり握り立っている裕くん。拳はワナワナと小刻みに震えている。
いきなりの流血事件…
私はびっくりしすぎて目の前がチカチカして倒れそうになった。急いで二人の元へ駆け寄った。
大事には至らなかったが頭をシャベルで叩くなんて… 勇気くんの手当を他の先生にお願いし、裕くんを追いかけ事情を聞くことにした。
「裕くーん!!!」
呼んでも、裕くんにとっては聞き慣れた叫び声だろう…
私の声が全く届いていない。
すばしっこい!
裕くんは園庭の角の木陰に隠れるようにしゃがんでいた。息を切らした私が追いつくと、にやにやしながらまた逃げようと走り出した。
「裕くん待って!」すばしっこい裕くんをなんとか捕まえて事情を聞く。
どうやら裕くんが使っていたシャベルを勇気くんに使われて腹を立て、勇気くんの頭をシャベルでガッツーんと殴ったらしい。
話しがまだ終わっていないのに裕くんは私の手をすり抜けてまた逃げ出した。
「も〜っ!」
こうして裕くんの後を追いかける日々が幕を開けた…
◯○゜.∘˚˳*。
3.見えない心
毎日心身共にクタクタになりながら帰宅した。
台所からトントントンと母の包丁の音が聞こえてきた。私は生活音や自然音を聞くのが昔から好きで音楽を掛けずに部屋で過ごすことが多い。誰かの存在を近くで感じながら過ごすことに安心と安らぎを感じているのだと思う。
生活音をBGMに、部屋の外から見える夜空をぼんやりと眺めていた。無数の星達がキラキラと輝いている。
目を閉じて心地よい風を感じていると遠くから騒音を撒き散らすバイクの音が聞こえてきた。いつも悲しさが聞こえてくる気がしていた。彼らにも満たされない何かがあるのだろう…
「悲しい。悲しい」って叫んでいるようだ。 人はみんな何かを抱えて生きている。いつも笑顔でいる人だってきっと何かを抱えている。
「悩み事がなさそうだね。人生楽しそうで羨ましい…」私はよく友達からこう言われた。言われるたびに「悩みがなかったらこの無数の腕の傷はないんだけどね‥」と心の中で寂しく呟いていた。
「人の心なんてその人にしか分からない… 自分自身でも自分が分からない時があるのだから誰にも分からない…」
空虚感という名の黒い闇が私の体を覆う。
手のひらの温かい紅茶に視線を落とし、その中に二人の顔を交互に映し出した。紅茶を一口飲むたびに体の中に温かさが落ちていくのを感じていた。
◯○゜.∘˚˳*。
4.良い子と悪い子
先生、僕お花にお水をあげたよ
先生 僕お掃除したよ
卓也くんはよく私のお手伝いをしてくれた。本当に毎回助かるくらい「良い子」だった。
目を輝かせて私のところに報告に来る。
児童養護施設から来ていた卓也くんと裕くん
裕くんが悪さしてしまう気持ちは分かる。
満たされない心があるから、こういう行動に出てしまう子はいる。
だけどなぜ卓也くんはこんなに「良い子」なんだろう…
境遇は似ているはず…
いつも表情が暗い卓也くん。あの瞳の奥に隠れた寂しそうな眼差しで
何度悲しみの夜を越えてきたのだろう…
裕くんは施設でもいっぱい叱られているのだろうか…
二人はいつもどんな暮らしをしているんだろう…
◯○゜.∘˚˳*。
5.焦り
「先生は『おかえりなさ〜い❤』って言って旦那さんを可愛く迎えるお嫁さんが似合いそうだね」恵子先生はケラケラと笑いながら私に言った。
幼稚園の中で一番年下の私は、毎日用務員さんが先生方にお茶を入れてくれることに居心地の悪さを感じていた。用務員さんの代わりにお茶くみをしたり、周りの動きを見て出来るだけ自分が率先して動くようにしていた。
「よく気が利く」という褒め言葉の代わりとして私の事を「良いお嫁さんになりそう」と恵子先生は言ってくれたのだと思う。
しかし、恵子先生の素晴らしいクラスと自分のクラスを比べて焦りを感じていた私は『あなたは先生よりお嫁さんのほうが向いているよ』と言われているような気がして鋭い刃が心をチクチクと刺した。
作り笑いを浮かべる自分が惨めで心は半分泣きそうになっていた。
裕くんが先生のクラスにいたら先生はどんなふうに裕くんと向き合っていたのだろう…
私は少し自信を無くし卑屈になっていた。
◯○゜.∘˚˳*。
6.親友と
「なんかあった?」
塗りたての薄いピンク色のマニキュアの爪にふーふー息を吹きかけながら雪が話しかけてきた。
日曜日の午後、ようやく先生という肩書から解き放たれ自分に戻れる時間がくる頃、私は親友の雪の部屋にいた。土曜日は誰とどこで何をしていても「先生でいなければ…」という想いが抜けない。
私は、『先生というものは子供達のお手本でいなければいけない』『きちんとしていなければいけない』という重い鉛のようなものを勝手に背負いこんでいた。
雪の部屋は白のインテリアで統一されていて清潔感があった。彼女のドレッサーにはメイク道具が沢山並べられていて、ソファーにはロングファーの薄グレーのクッションと白のクッションが置かれていた。窓際には小さな観葉植物がいくつか飾ってあり、オシャレで落ち着いた空間が彼女らしかった。
私は小さなテーブルの下に敷かれたグレージュのラグの上に、ソファを背もたれにして座り、クッションを抱えて、雪の部屋でよく過ごしていた。
雪のことは小学の時から知っているが、中学の時に部活が一緒になったのがきっかけでその頃から仲良くなりずっと一緒にいる。名前の通りの透き通ったきめの細かい白い肌に大きな目、筋が通っている鼻。雪は誰もが認める美人で将来彼女はアイドルかモデルになると思っていた。
長い付き合いの雪とは多くの時間を一緒に過ごしてきた。様々な大切な場面で彼女はいつも私の隣にいた。沢山の想い出を共有している分、彼女は私の変化にとても敏感だった。
「クラスの児童養護施設から来てる子達の事…」私は雪が入れてくれたアイスコーヒーの氷ををストローでつつきながら言った。
「問題児の子?」
「うん。 その子ともう一人はすっごく『良い子』なの…でも表情はいつも暗いんだよね」少し小さくなった氷をガリガリかじると、私の口の中に冷たさが広がり頭がキーンとした。
部屋の外から階段を上がる足音が聞こえてきたと思ったら、突然部屋のドアが開き
「みーちゃん 来てたの?こんにちは お昼は食べた?」
買い物から帰って来たばかりの雪のお母さんが買い物袋を下げて部屋に入ってきた。
「も〜 お母さんノックくらいしてよ」
「はいはい ごめんなさいね」
「おばさん こんにちは。お邪魔しています。お昼は食べてきたので大丈夫です。ありがとうございます」
おばさんは、雪の顔をちらりと見て、やや不満そうな表情を浮かべた。
「雪、おやつあるから後で取りに来て。みーちゃん、ゆっくりしていってね」おばさんは私にぎこちない笑顔を向け、雪の冷たい視線に追い出されるように部屋を出ていった。
雪は階段を降りる音に耳を澄ませ、下まで降りたことを確認し
「ったく… いつも勝手に部屋に入ってくるんだから…」とため息混じりに言った。
ーーー門限が厳し過ぎる
ーーーいちいち干渉してくる
ーーー口うるさい
ーーー朝ゆっくり寝させてくれない
雪と私はお互いの両親の愚痴を漏らすことがある。
ーーーー実はそれってとても贅沢なことなのかもな…
一緒に暮らしている心を許し合っている親子だから喧嘩をする時もある。自分がどれほど恵まれているかなんて気づかないものである。
「親に小言を言われてうるさいと思う時もあるけど、当たり前のように親がそばにいてくれて、当たり前のように食事が出てきて、当たり前のように洗濯をしてくれて、当たり前のように何不自由なく暮らせていること…
誰かにとっては当たり前じゃないんだよね…」
「まぁね… でも親に頭きちゃうんだけどね…」雪は半分納得いかないような顔をした。
「そうなんだけどね…」
「みーは根が真面目だよね…」
雪はゴロンとベッドの上に寝転び、まだ完全に乾ききっていないマニキュアにまた息を吹きかけた。
「真面目なのかな… ベテラン先生だったらどんなふうに接してあげるのかな… 私のクラスだなんて二人が可哀想に思えてくる…」
雪は体を起こしてキレイな目で真っ直ぐ私を見つめ「真面目だから悩むんだよ。自分とベテラン先生を比べなくていいよ。みーはみーのやり方で二人と接してあげたら?きっと二人は幸せな気持ちになるよ。自分をもっと信じなよ」と言った。
「そっか… そうだよね。ありがと…」
雪はいつも私が欲しい言葉をくれる。家族以外でちゃんと叱ってくれたり、一緒に悩んでくれたり、一緒に喜んでくれる存在がいるのはありがたいことだ。親友の言葉に少し心が軽くなったのを感じていた。
私は卓也くんと裕くんのことを考えながら、部屋に入ってくる日差しに照らされてキラキラ光る雪の爪を見つめていた。
◯○゜.∘˚˳*。
7.良い子の枠と本当の良い子
「先生のクラスの翔太くん。あの子は『良い子の枠』に入れられているね…」
園庭で友達と遊んでいる翔太くんを見つめながら、突然恵子先生が私に言った。
「翔太くんですか… 良い子の枠?」
「そう。良い子の枠の中に入ってガチガチになっているの。特にしつけが厳しい親だと子供は良い子の枠に入ってしまうんだよ。親や大人の目を気にして伸び伸び出来なくて子供らしくなくなるのよ… これから翔太くんをよーく観察してごらん」
恵子先生は腕組みをして難しい顔をした。
翔太くんは綺麗な顔立ちをしていたので、女の子から人気があった。リーダー的な存在で男の子からも慕われていた。翔太くんが良い子の枠にはめられている???
「大人が思う『良い子』が子供の本当の『良い子』とは限らないんだよ…」
恵子先生が太陽の日差しを遮るように目の上に手をかざして眩しそうに目を細めて言った。
厳格な父、実直な母。優秀な両親の元で育った私は「良い子」にしていなければ…という思いが常に頭の片隅にあった。
大人になってからも自分が周りからどう思われているか他人の目が気になる。
幼い頃の自分と翔太くんを重ねて見ていた。
「うちのクラスの桜ちゃんを見て。あの子は伸び伸びとしていて子供らしいの。お母さんがとても穏やかに子育てをしているのがよく分かる。私もあんなふうに子育てすれば良かったと思ったわ」
桜ちゃんは恵子先生のクラスの子で、大人しくて目立つ存在ではなかったので気にして見たことはなかった。
恵子先生はストレートに物を言う人で厳しかったが、私はその中に優しさを感じていた。表面でしかものを見られなかった私に、とても深く考えさせられる言葉をいくつもくれた。
私はブランコで友達と楽しそうに遊んでいる翔太くんを目で追いながら先生が私に伝えたい言葉の真意を探していた。
8.二人の中のある共通点
「大人が思う『良い子』が子供の本当の『良い子』とは限らない」
恵子先生の言葉がずっと頭から離れなかった。
その日から私は子供を「良い子」「悪い子」という先入観にとらわれたものの見方をしないように心掛けた。
そして二人の中のある共通点が浮かび上がった。
そっか先生(大人)に注目して欲しいんだ!
自分に関心を持って欲しい
.
..
構って欲しい
.
.
見ていて欲しい
.
一一一 そっか そうだよね…
卓也君は「良い子」でいることによって、私の気を引いていた。
ありがとう
助かったよ
先生が喜ぶことをしていっぱい褒めてもらいたかった。
自分を見ていてもらいたかった。
裕くんは悪いことをしてでも先生に見ていて欲しかった。
裕くーん!
どうしてこういう事をしてしまったの?
自分がされたらどう思う?
この時間の私の注意は全て裕くんに向いている。
怒られてでも先生に見ていて欲しかったんだ…
私はストンと腑に落ちた気がした。
子供ってどうにかして大人に自分を見てもらおうと考えている。
拗ねたり、怒ったり、妹や弟をいじめたり、友達のおもちゃを盗んだりetc…
公園に行っても
ママー 見て〜
子供は親に見てもらいたいし、驚かせたい、喜ばせたい、褒めてもらいたい…
兄弟何人いたって自分一人を見ていて欲しい。自分だけを愛して欲しい。
とにかく一生懸命だ。
でも2人が心の奥底で本当に求めていたのは、先生としてや大人としてではなくママとしての温かなぬくもり
先生の気を引くことに成功したけど、裕くんだって本当は怒られたいわけじゃない…
一番欲しい愛情はもらえていない…
心は満たされないまま
だけど先生の気を引きたくてまた悪さをしてしまう。
裕くんは、先生の気を引きたくて悪さをし叱られる。先生の気を引いたけど愛情はもらえていないので心は満たされないままだった。
満たされていないから、同じことを繰り返してしまう。
卓也くんは、先生の気を引きたくて先生の手伝いをしたり、いつもおりこうにして、先生に褒めてもらうように頑張っていた。
9.愛情をいっぱい送る…
卓也くんはお手伝いをいっぱいして先生に褒められて嬉しいけれどやっぱり欲しいのはママのような愛情
それに気づいた時、せめて少しだけでも2人にママのような愛を感じさせたい…そう思った。
だけど…
恵子先生は「6歳児に抱っこなんてしないよ」
以前私はクラスの子供を抱っこしていたことがあり、その場面を見た恵子先生に叱られたことがある。
先生として失格かもしれないけれど、どうしても2人にママのような愛情を送りたくなった。
お手伝いを頑張る卓也くんを見ていると
もうそんなに頑張らなくていいんだよ…
そう伝えたくなった…
きっと施設でも同じように頑張っている。
「見て 見て 僕を見て」ってきっと心は叫んでいる。
子供って悪さしたり、親にわがまま言ったりそんな時もある…
むしろそれが子供の自然な姿だ。
「先生、机の上を綺麗に拭いたよ」
いつものように報告しに来る卓也くんの手を取り抱きかかえて私の膝の上にのせた。
卓也くんと両手を繋いで目を見てお話を聞いてあげた。
私の膝に載せた時、卓也くんは少し驚いていたけど、とても嬉しそうだった。
「僕ね… 昨日ね…こんなことがあってね」
「そうなんだ へ〜」
私は、真っ直ぐ切り揃えられた卓也くんの前髪を優しく撫でながら相槌を打った。
ちょっと照れて頬が赤くなった卓也くん。とても幸せそうな顔をしていた。抱きしめて背中を優しくトントンして「卓也くん大好きだよ」と伝えた。
私は仕事が終わった帰りの車の中、家に帰ってからぼーっとしている時も卓也くんの嬉しそうな顔や満たされているような顔をよく思い浮かべていた。
ーーー本当はママを独り占めしたいんだよね…
いっぱいいっぱい甘えたいんだよね…
甘えたい時にママが隣にいなくて悲しい思いを沢山しているんだね…
そっか…
そっか…
二人のことを思うとズキンと胸が痛んだ。
◯○゜.∘˚˳*。
10.言葉を心に届けるということとは?
【子供をただ叱っても駄目なんだよ 言葉を心に届けないといけないんだよ】
以前、恵子先生が私の子供達への叱り方をみて、自分の頭を人差し指でトントンと指し「頭に言葉を伝えるんじゃなくて、ここ」今度は私の胸をトントンと叩いて「ここに届けるように子供に伝えなきゃ駄目なんだよ」と言った。
この言葉が私の胸の奥底までズシンと響いた。
ーーーーだけど、どうやって子供の心に届ける伝え方をすればいいんだろう…
その日から私は恵子先生が子供達と接している時、子供達への言葉掛けにさり気なく耳を澄ましていた。
しばらくしてから少し何かを掴めたような気がした。
それが本当に正解なのかは分からないけれど
「ただ叱る」から「子供の心に届けるように叱ること」どんな言葉が良いのか迷いながらも必ず考えるようになった。
恵子先生から、先生としてだけではなく人として大切なことを沢山学んでいった。
◯○゜.∘˚˳*。
いつも悪さをしてしまう裕くん
裕くんが友達に悪いことをしたら両手を繋いでしゃがんで目線を合わせて裕くんと話をした。
叱った後は
「前よりもちゃんと先生の目を見て最後まで話が聞けるようになったね。偉かったよ」
「先生、嬉しかったよ」
と必ず褒めて裕くんを優しく抱きしめた。
抱きしめるといつも目をそらして少し恥ずかしそうな顔をする裕くん。
悪さをした後はどこかに隠れて出てきてくれなかった裕くんだったが、少しずつ変化が見られるようになっていった。
友達を叩く回数も減り、隠れたり逃げることも日毎に少なくなっていった。二人の心が少しずつ安定していった。
◯○゜.∘˚˳*。
幼い頃に両親から愛情を受け
愛されることを知り
心の土台が安定する
誰かから愛され誰かを愛することが出来る
心に積もった愛は勇気や生きる糧になる
でも例え幼い頃に両親からの愛情を受けなかったと感じていても
誰かから強く愛された記憶は心に残りきっと未来の力になる
卓也くんや裕くんに少しでも私の愛が残せていたらいいな…
◯○゜.∘˚˳*。
11.近づく別れ
どんなに悩んでいても、季節は流れ、春から夏、夏から秋、秋から冬、冬からまた春がやって来る。
子供達とのお別れがどんどん近づいてきた。
ーーーもうすぐみんなとお別れか…
保護者にとって私はとても良い先生とは言えなかったかもしれないけど、私はこのクラスの担任になれてとても幸せだった…
みんな可愛い私の子供達…
クラスの一人ひとりの顔を思い浮かべていた。
卓也くんと裕くん…
親からの愛情を受けずに生きている。幼稚園は行事が多く、親が参加する行事も多い。友達がパパやママと一緒に過ごす時間をどんな気持ちで二人は見つめていたのだろうか…
卓也くんと裕くんの孤独な表情を思い出し、二人の心情を思うと切なくなった。
二人を養子にできないだろうか… 一瞬頭によぎる。
でも、結婚もしていないしこれから先も育てていける経済力も今はない。それにどんな事があっても二人を幸せにできる保証なんて何もない。周りが猛反対するに決まっている。
一時の感情だけで決められるわけがない。
無責任だ… ただの偽善者だ…
二人の私がぶつかり合い、一人の私がもう一人の私を責め、無責任な想いをそっと胸の奥にしまいこんだ。
悲しみや苦しみは人それぞれ違う。
児童養護施設で育ったといっても不幸なわけではない。
両親が揃っていても親との関係に悩んだり苦しんだりする人はいる。
私は、思いに潰されそうになるくらい毎日ぐるぐると考えを巡らせていた。
外は雨が強く降り続いていた。強い風が吹くと雨が窓を叩き大きな音をたてた。私は少し窓を開けて手を出してみた。冷たい雨が手の平に落ちる。
二人の悲しみを雨と一緒に全て消して欲しい…
愛が二人の心に降り注ぎますように…
◯○゜.∘˚˳*。
12.卒園の日の忘れられない思い出
3月下旬 卒園式の日
まだ半分眠気が残るだるい体を起こし、朝の準備をしていた。
憂鬱な気持ちと少しの緊張で目覚まし前に目が覚めていた。
今までは、どんなにだるい朝でも「子供達に会える…」と子供たちの顔を思い浮かべると嬉しくなって気持ちが切り替わり元気に家を出たものだ。
しかし今日は気が重い…
行きたくない。
もう子供達と今日でお別れしなくちゃいけないんだ…
毎日会っていたのにもう会えなくなるんだ… 私はコーヒーを飲みながら「寂しいな」と呟いていた。
重たい気持ちを引きずりながら簡単に朝食を済ませ家を出た。
少し冷たい空気が肌に刺さる。空を見上げるとひつじぐもが広がっていた。満開を迎えた園庭の美しい桜に見守られる中、いつものように子供達を笑顔で迎えた。
今日はみんなおしゃれしていて急に大人っぽくなったように感じた。
卒園式が始まり、子供たちの名前を読み上げる。
壇上で園長先生から卒園証書を受け取る子供達の姿を見ていたら、一年間の思い出が蘇り想いがこみ上げてきた。涙が溢れ出し私の頬をすーっと伝う。
眠い朝も子供達の顔を思い浮かべて気持ちを切り替えて園に向かえたこと。
私がお弁当を忘れた時、子供達が少しずつ私に分けてくれたこと。
子供達が私に抱きついてきてくれたこと。
お手紙を毎日書いてきてくれたこと。
道端で見つけた野花を摘んで私のために大事そうに持ってきてくれたこと。
運動会、お遊戯会を緊張しながらも一緒にやり遂げたこと。
先生大好き、先生の子供になりたいと言ってくれたこと。
全て大切な思い出。
大切な子供達。
明日からもう会えないんだ…
私は今まで自分の卒業式で一度も泣いた事がなかった。何が悲しいのか分からなくて卒業式で泣くことの意味が分からなかった。
なのに、まさか卒園式で泣くことになるとは…
涙を必死にこらえようとしていたら声が震えだした。
名簿が歪んで見える度に何度もハンカチで目を拭った。
泣きじゃくりながらも何とか最後まで全員の名前を読み上げることが出来た。
「先生お世話になりました」
「先生お元気で」
保護者が私の所に泣きながら挨拶に来てくれて、泣いている姿を見て私もまた涙…
「一年間お世話になりありがとうございました。先生が大好きで毎日楽しく幼稚園に通うことが出来ました。ありがとうございました」
泣きながらこう言ってくれたのは、1年前美佳ちゃんが恵子先生のクラスになれなくてがっかりしていた美佳ちゃんのママだった。私の苦い思いが少し報われたような気がした。
美佳ちゃんは春休みに遠くの町へ引っ越すことが決まっていた。
涙を溜めて「先生〜」と美佳ちゃんが私に抱きついてきた。
みんなそれぞれの別れを悲しんでいた。
◯○゜.∘˚˳*。
静まり返った教室の後片付けをしていると児童養護施設の佳織先生が卓也くんと裕くんを連れて挨拶に来てくれた。
「先生、一年間お世話になりありがとうございました」
佳織先生は穏やかでとても優しい人。
優しく微笑んでいた佳織先生の目も涙で赤くなっていた。
「こちらこそありがとうございました。卓也くん裕くん…一年間…楽しかったよ。ありが…とうね…遊びに来てね… また会おうね…」
遊びに来てねと言ったけれど、児童養護施設から来ている子供は自由はきかない。遊びに来たくても来れないことは知っていた。だけどもしかしたら来てくれるかもしれないと数%の僅かな希望を込めて二人に伝えた。
「ほら、卓也くんも裕くんも先生にありがとうございましたって挨拶しないと」
佳織先生に促され何か言おうとした卓也くんは、抑えていた感情が溢れ出してしまったのか、膝から崩れ落ちその場でワンワン泣き始めてしまった。
床にぺったり両足をつけて天を仰ぎながら大声で泣いている卓也くん。しんと静まり返った教室に卓也くんの少しかすれた泣き声が響き渡る。小さい肩を大きく震わせてワンワンと泣く姿を見て私も涙が止まらなくなった。
それを見た裕くんの顔が歪み泣き出したが、泣き顔を見られたくなかったのか、止めようとする佳織先生の手を振り払い走り去ってしまった。
私は卓也くんの泣き顔と裕くんの後ろ姿を見ながら
この光景は一生忘れないだろうな
そう思った。
彼らに私の愛情が伝わった気がして嬉しい気持ちと、もう会えない悲しさで胸がいっぱいになりもう話すことが出来ないくらい泣いていた。
◯○゜.∘˚˳*。
13.願い
あれから随分年月が流れた。
今、二人はどこで何をしているんだろう…
あれ以来、彼らとは一度も会っていない。
どこかですれ違っても大きくなった彼らのことはもう分からないだろうな…
もう私のことは覚えていないかもしれないけれど、彼らが今、幸せであって欲しいと心の中で願っている。
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