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【小説(過去作品)】終雪の師

 初雪は毎年発表されるからよく聞いているが終雪(しゅうせつ)という言葉は初めて読んだな、と三上去右子(みかみ きょうこ)は電車に揺られながら気づいた。終雪とは早春の頃、今冬の最後に降る雪のことだ。気象台が毎年観測するらしいが、発表はされないので耳馴染みが無い言葉だ。
 電車が山間の無人駅に停まった。狭いホームを覆った雪には足跡一つない。駅舎の引き戸は雪で目張りされている。山に生えている枯れ木が青白く光っている。車内放送が切れると、高い風鳴りが聞こえ、ホームから雪が吹き上げられた。雪溶けの気配も感じられないな、と去右子は目をこすった。
 終雪(しゅうせつ)という言葉を去右子が教わったのは、大学院の恩師である白岐(しらき)の書いたノートからだった。そのノートは白岐が去右子の家に送ったものだ。
 白岐は老衰で死んだ。早朝の研究室で教務の職員に発見された。定年を迎えても退官せず、自分の研究を続けていた。確か、オセアニア辺りの先住民族の研究をしていたようなと、去右子は記憶している。
 去右子はノートの冒頭を、白岐独自のくずし字を思い浮かべながら諳んじた。

「私が三上さんの指導教授を申し出たのは、貴方が私と同じ、産まれながらの障害を持っているとわかったからです。その障害とは、他人を慕う辛抱が著しく欠けた心です」

 不思議なノートだった。一息で喋るように書いた文章の後には行間がひとつ空いていた。その行間を眺めながら去右子は前の文章を受けて質問した。すると、次の文章がその質問に答える内容になっていた。先生は私がどんな疑問を持つかがわかって書いたのだろう、なぜなら先生もかつて似た疑問を持っていたのだろうから、と去右子は納得した。
 ノートを読んでいる間、去右子は白岐と会話をしている錯覚を起こした。まるで修士論文を書くための指導をする面談のように。今だって顔を上げれば、向かいの座席に白岐が座っているような気になった。去右子は初めてノートの冒頭を読んだ時と同じ質問を再びした。
 それは、どういう意味ですか?

「意地悪く言えば、貴方は自分が他人に慕われる方が先にあるべきだと思っている」

 あるべきとまでではなく、そうであっても良いんじゃないかというくらいです。

「三上さんは慇懃で穏やかな振る舞いをする。嫌いな人がいても影口は言わないし、攻撃もしない。ゼミの学生達は三上さんを優しくて賢明と思っていたようです。ですが、三上さんのその振る舞いは、他人の受け入れ方がわからないという負い目が動機でしょう。他人と共に事を成し遂げるための振る舞いがわからないので、とりあえず過剰に気を使う。その証拠に鋭い学生は三上さんのことを、周りの空気が透明な感じがする、と評価していました。貴方は自分が、周りが好ましいようにこれだけ努力しているのだから、あとは向こうが自分のハンデを受け入れる努力をするだけだと考えていますね」

 はい。私で出来る限りのことはしたので。

「しかし、その考え方は三上さんを孤独で厳しい寒さの季節へ滞らせてしまいます。三上さん自身もわかっているはずです。貴方は何度も、こんな考え方を変えようとしたのでしょう。でも、一度その考えを退けても、また些細な出来事をきっかけに巡って来て心に覆い被さる。まるで春に溶けた雪が再び冬に降り積もって厚い根雪となるように。三上さんがそんな負の循環を断ち切る手伝いになればと、このノートを書きました」

 電車が停まった。緊急停止の警報音が響いていた。猛吹雪で停車するのでしばらく待ってくれと運転手が放送し、謝罪した。他の乗客たちは平然と俯いた。窓の外は田園だった。暖かく明るい車内から見る外の地吹雪は別世界のように思えた。
 去右子は大学に、遅れると連絡を入れた。これから指導教員を変えるための正式な手続きに行く予定だったのだ。
 去右子はまたノートの文章を思い浮かべ、行間に向かって質問した。
 先生にも出来なかったことを、私に教えられるのですか?

「どうしたら貴方の考えが変わるのかを教えるのは無理です。私も最後まで変えられませんでしたから。なので、最後までその考えを変えられなかったらどうなるか、貴方の未来だったらお教えできるかもしれません」

 先生の半生でもお書きになるのですか?

「ご安心なさい。私の半生を読ませはしません。三上さんは他人の体験談を参考に自分を改めることは無いでしょう。ゼミの追い出しコンパの時の発言で理解しています。
 覚えていますか? 皆が酔っ払っている時に(だから皆は覚えていない)ボソッと貴方が言ったことを。三上さんが私と同じ、歪んだ認知の持ち主だという確信を、その発言がさせたのです。荒川さんが就活の体験を話した時の星野さんの発言がきっかけですね。『先輩が頑張るの見るたびにあたしもって思ってたんです』と。皆が夢中になって荒川さんの健闘を称えている時、貴方は呟きました。『頑張る人を見たら、私も頑張んなきゃいけないの?』
 私は驚きました。私と全く同じことを考える人がいる。そりゃ教員としては先輩が頑張るのを後輩が見習うのは有難いことです。勝手に士気を高めてくれるので指導が楽になります。ただ、他人が頑張るから私も頑張るという論理が飲み込めない。それが同じ組織で同じ目標に向かうならばともかく、個人の目標に黙々と個人が向かうのを見て、私も私個人の目標に向かって頑張ろうとはならない。だって、相手の頑張りは私には関係ないところに向かっているし、私の頑張りも相手には関係ないところに向かっているのですから。「あの人が頑張っているから私も」と言う人には二通りいます。社交辞令でそう言うだけの人と本気でそう思っていて本当に頑張る人です。前者なら私は特に何も思いません。だが、後者のつもりの人は、自分で強くやりたいと思うことや興味、好奇心が減退しているのだと、気の毒な反面、羨ましく思います。
 私が研究する、とある先住民族は自分の現実を真摯に生きながら他人とも生きていける仕組みの中にいます。だが、いくら民族に憧れても、私が浸かるのは真摯さが蔑まれる仕組みなのです。
 三上さんは自分の考え方に真摯な人でしょう。しかし、他人と共に生きるには気安さが必要なのも理解している。貴方は自身を尊重し、他人と快く一緒に生きられるようになりたいと願っている。貴方は差別と共生の研究を志していますね。人の温もりへの飢えと末永く思える心細さによる不安が向学心に現れている。貴方は、ある時はいわれなく虐げられている不遇な者に、またある時は無知と無理解によって人を虐げる愚か者に自分を重ねて自分を慰め、嘆く。貴方の心は疲弊し、もう辛(つら)いとも楽しいとも何も感じていない。未来永劫、不安と疲弊に苛まれるでしょう」

 突然、大きな音がして、去右子は、はっと気づいた。
 車内が暗い。乗客達はおろか運転手も車掌もいなくなっていた。ドアが開いている。そこから雪の混ざった強風が吹き込んで来ていた。さっきのは、ドアが吹雪でこじ開けられた音だったのだろうか?
 去右子はドアから外に降りた。息が出来なくなるほどの大吹雪だった。電車の進んでいた方向に踏切が見える。去右子は踏切まで歩いて、田に挟まれた細い道路に出た。
 去右子は歩きながら、ノートの結びに綴られた教授を諳んじた。

「最後に三上さん、終雪を知っていますか? 終雪とは早春の頃、今冬の最後に降る雪です。気象台が毎年観測するらしいですが発表はされません。私は怪訝に思いました。じゃあ、いつが終雪かなんてわからないじゃないか。終雪がいつかとは雪がすっかり溶けてから、今年の冬は最後に雪が降ったのはいつだったかなと思い返して初めてわかる。吹雪いている間は、いつ止むかばかり考えて心を細らせる。私にとっての終雪はきっと死であり、三上さんという学生を見つけたことです。少しの間、研究を休んだらどうですか? そして、終雪に気づく感覚を蘇生させてください」

 去右子は心細さで挫けた。厳寒の中で自分を温めるのが自分の両手と外套一枚だけ。去右子は他人に温められたいと願った。
 乗客達は暖かい所に避難したのだろう。何故、私は置いてかれたのだ。私が彼らの声に気づかず無視していたのだろうか。去右子の耳には絶えず吹雪の轟音が鳴っている。吹雪の音以外、何も聞こえない気がして、去右子は暖かい所にいる乗客達を恨み、雪の上に大の字で倒れた。地吹雪は、ゆらりと立ち上がると猪のような巨体に豹変し、線路を超え去右子を踏みつけ暗がりへ突き進み、果てるのを繰り返した。去右子は喧(かまびす)しさに目を閉じた。

 この両手は私を温めるか、差し伸べられた他人の手を取る他に決して使うものか――。

 踏切が鳴り、遮断棒が下りた。去右子が歩いて来た方向から電車が走って来て、通過する勢いが遮断棒を揺する。去右子は目を見開いた。最後の車両に白岐の姿を見つけたのだ。目の前が開けると、遮断棒が起き上がった。去右子は首を仰け反らせ、電車を見送った。

「先生。そこは暖かそうですね……」

 去右子の言葉は温かい息に包まれ、消えた。
 先生は、この吹雪のような心を抱えていたのだろう。胸の中で地吹雪が起こる度、息ができなくなるほどの激しさに耐えながら止むのをじっと待った。死ぬまでの間に何度も。
 去右子は初めて理屈抜きで他人を労えた。そうさせた白岐の姿は去右子に、吹雪は死ぬまで何度も耐えることだという事実を受け止めさせ、挫けた去右子にそっと触れた。
 電車が進んでゆく先は青かった。吹雪が止んでいた、と去右子は気付いた。積もった雪が山間の僅かな光を反射して夜空を照らしている。去右子は、自分が月面に立っているような気持になった。
 去右子は次の駅まで行こうと起き上がった。自分を精一杯、両手で温めながら進んだ。


                  了

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