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父、上顎洞がんになる〜第二の患者登場

淡々と父の上顎洞がんについて書いてきましたが私のメンタルが非常事態だった話も書いときます。

父の発病時、私の子どもは4歳と1歳。上の子はちょうど2年保育の幼稚園に入ったところでした。このちびっこたちと父の見舞いを両立するのが至難の技でした。

見舞いの主目的は、洗濯です。なんてったって20年以上前なので、今のような寝巻きのレンタルなど発達していませんでした。

下着など多めに用意しても3〜4日に1度は行かないと!そんな感じでした。

時間に制限もありました。上の子が幼稚園に行っている9時から14時の間に行って帰って来なくてはなりません。延長保育なんて田舎にはなかった時代です。

上の子が出かけたら車で夫の実家に行って下の子を預け、夫の実家の最寄駅から新幹線に乗ります。夫の実家の最寄駅が新幹線の駅だったことと、義母が新幹線の回数券をプレゼントしてくれたことが、不幸中の幸いでした。

しかしこれも数回で頓挫しました。下の子を引き取りに行った際、義父からクレームがありました。「たびたび預けられると迷惑」と。また、嫁に出た私が父の面倒を見るのは間違っていて、弟のお嫁さん(他県在住)がみるべきとも。

義父は、とても古い考えの持ち主でした。昔、義母の母親が病気になった時も見舞いを許さなかったとか。嫁に出た娘は親の見舞いにいっちゃいけない、そんなルールがあるとはその時まで知りませんでした。

義母は「気にしなくていいのよ」と言ってくれましたが、義父のいないところで言うってことは、義母は義父に気を使っているってことなんだと感じました。

で、その後は1歳半の下の子を連れて病院に行きました。その頃はキティちゃんの大ブームの頃で、駅から病院までの10分ほどの道にもキティちゃんが溢れていてました。そこここで「ティーちゃん」と指差し確認したまま動かなくなる下の子連れでは、なかなか病院に着きませんでした。

病院に着いたら着いたで、父は早く帰れって言うし(私や子どもたちを心配してくれての気遣い)、義父との思いやりの違いに涙が出たような気がします。

洗濯の件ですが、親切にも病院のどなたがやってくれることになったり(今なら洗濯代とって請け負うサービスもあるんですが20年以上前なので…)、そのうち父が自分でできるようになったりで、助かりました。

それでも、小さな手術や他の病院の口腔外科の受診など行かなくてはいけない時もまだまだありました。

この一方で、私には幼稚園ママとの付き合いもやらねばいけませんでした。今でこそ人間もこなれてきて、人付き合いの塩梅もわかっているのですが、この頃はいけませんでした。ダメダメでした。

そんなストレスフルな日々に胃痛が続きました。それまでも胃腸は弱くて、タケダ漢方胃腸薬が常備薬でした。

ある時病院から駅に向かう道で、ひどい胃痛に襲われました。駅まであと少しなんだけど、その途中でうずくまってしまうかも…そんな不安を感じたその場所は偶然にも小さな薬局の前でした。迷わず店に飛び込みました。どう説明したのか覚えていませんが、店主は「あなたのような人はコレ!」と見たこともない薬を差し出しました。

ブスコパン



それだけでなく、店の奥からコップ一杯のお水も持ってきてくれて、その場で飲むよう言われました。勧められた薬は、胃の痙攣による胃痛に効果抜群とのことでした。本当に助かりました。

胃痛はブスコパンによってコントロール可能になったのですが、代わって右脇腹の痛みに襲われるようになりました。短い時間ですが、痛みが起きると思わず手でそこを押さえるほどでした。

近くの胃腸科を受診したところ、ストレスにより腸がくびれて細くなり、そこをガスが通る時に痛みを発する、とのことでした。

「ストレスをなくすこと」が痛みを和らげる1番の方法と言われましたが、それ、1番難しいことなんです。この状況ではとうてい無理なんです。そんな気持ちになりました。

足の裏のホクロが気になったこともありました。皮膚科を受診して、切除をしました。もっとも、医師は「気になるなら切る?」程度だってのですが、気になって仕方ないから受診したんです。切りました。病理検査もしてもらい、結果は「ホクロ」(もっと専門的な言い方でしたが忘れました」。

他にも舌が痛くて、ずっと治らないことが気にかかり始めました。歯医者で気になる場所の隣の歯を少し削ってもらったりもしました。でも、気になる状況は変わりませんでした。

ある日、幼稚園の支度が終わって、後は送り出すだけだったのに、何かあったのでしょう。泣き叫んでしまって、子どもを送り出すことができませんでした。泣き叫んだのは、子どもではなくて私です。

この時は、出勤前の夫が子どもを送り出してくれました。私は泣き叫びながら、夫に精神科に連れて行ってくれるよう頼んだのですが、夫は出勤の時間だと言って出かけてしまいました。

この頃は毎日、自分の体の不調に集中してしまっていました。夫や弟は「仕事がある」と言って、父のことから距離を置くことができます。当時専業主婦だった私は「時間がある」ので、父のことはほぼ私の責務となっていました。多分、その頃の私には病気になる必要があったんだと思います。病気になれば父のことから逃れられる。バックグラウンドでそんな気持ちが働いていたのは間違いないです。

そんな風に過ごす中で、風邪をひきました。発熱などはなかったのですが、咳が酷くて1度咳込むとなかなか止まらず、涙が出るほどでした。

この頃には判断力がおかしくなっていました。もしかしたら、この咳も私の気持ちの問題が作り出しているのかな…それまでの痛みがストレスに起因する物だったり、気にしすぎだったりしたので、そんなふうに思ってしまいました。それでも咳がひどくて辛いので、腸の件で受診したクリニックを訪れました。

医師にはとにかく休憩するよういわれました。いわゆる風邪をこじらせた状態なんだけど、この先無理をするとウイルスが肺や脳に行って肺炎や脳炎を起こしかねない、熱がでるようだったら肺炎だからね、みたいな感じだったと思います。痰を出やすくする薬のみもらって帰って来ました。

それからほどなく、高熱が出ました。前行ったクリニックではなく、もっと近くのクリニックへ行きました。てっきり肺炎になってしまったのかとおもっていましたが、医師のみたては「前のクリニックの待合室で他の風邪に感染したのかも」でした。

そして「ウイルスの風邪に抗生剤は効かないんだけど、細菌性の風邪に感染したかもしれないので抗生剤を処方する」と。

これが効果てきめんだったのか、そもそもほっといても熱が下がるタイミングだったのかわかりませんが、その日のうちには熱が下がり始めました。

高熱が出たことで、私はやっと病気になれました。気のせいでもなく、ストレスが原因でもなく、ウイルスまたは細菌が原因の病気に。正々堂々と一日中布団に入っていられるし、下の子の世話も人に(多分義母?もしくは夫?)に頼める。幼稚園のお迎えだって頼んじゃえばいい。父の病院にも寧ろ行っちゃダメだし。

この数日の療養が精神面にも良かったのでしょう。高熱が下がった後は、つきものが落ちたように体の不調が気にならなくなりました。4月に始まった父の入院治療に終わりが見えていたのも大きかったかもしれません。

こうして振り返ってみると、まず「夫、ひどい」と言う言葉が頭をよぎりました。精神のコントロールを失った私を置いて会社行っちゃうとかさ。そんな自分をおかしいと感じていて、どうにかしてそこから助け出して欲しいってことだったのに。

この頃はまだメンタル系の受診は今より敷居が高かったのだと思います。夫の知力や想像力では、そこに結びつかなかったのでしょう。

次に、「私の欠点がよくわかる話だな」。この二十数年後、再び私の精神は危機に陥るのですが、その時は自分で専門家を訪ねて、より生きやすくなる考え方を学びます。

父の見舞い
幼稚園ママとしての立ち振る舞い
子どもたちの世話

3つ合わせると自分のキャパシティをオーバーしているのにも関わらず、どれにもそこそこの完成度を求めていました。今では私の住む田舎でも、一時保育などできていますが、当時はそんなものはなく、でも、上の子の幼稚園を休ませるとか、ママ友の付き合いを断るとか、下の子は義父がなんて言っても知らん顔で預けるとか、すればよかったように思います。

真面目で努力家な性格が、時として自分を苦しめることを知るのには、まだだいぶ時間を要しました。

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