「この顔だからこの役」 配役の大切さを教えてくれた「ラ・ラ・ランド」
Netflix制作のドラマ「地面師たち」で改めて配役の重要性を認識したんですが。冒頭に出てくる地主の代役を演じた俳優が、もう偽地主にしか見えなかったし、歌舞伎町のホストがホストにしか見えなかった。いずれも無名の俳優でしたが、少なくともあのドラマでは名優だったし、ドラマの成功に一役も二役も買っていると思えたわけです。
遅ればせながらPrimeVideoで見た大ヒット映画「ラ・ラ・ランド」成功の決め手の1つも配役だったのでは、と。つまり、エマ・ストーンを主役に据えたこと。ここではないかと。
物語はいわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」もの。渋滞したハイウエーで不快な出会いをした男と女が偶然再会。互いの魅力に気付いて次第に心を許していく――。日本の漫画でみる、初登校時にすれ違って言い合いになった男女がたまたま同じクラスになって恋に落ちる。あれですよ、あれ。
出会うのが高校生ではなく、俳優志望の女性とジャズミュージシャン志望(現在ロックバンド所属)の男っていうのが違うところで。夢を追いかける2人の葛藤と挫折、すれ違いがほろ苦く描かれていまして。
しかもミュージカル。個人的にはあんまりミュージカルに慣れていないというか得意じゃないというか。なのでなかなか食指が動かなかったのですが。
よかったです、結果から言うと。ちょっとうるっときたりして。
まず音楽がいい。ミュージカルはやっぱ決めとなる音楽がよくなくちゃ。特に「City of Stars」はスタンダードナンバーかと思うほど、シンプルなのに印象的で物悲しく。見終わった後、口ずさむこと間違いなし。
しかし、何よりこの映画が成功した最大の理由は「顔」だと思ったわけです。
確かに端正だけどちょっと、というかかなり田舎臭いライアン・ゴズリングが、ジャズピアニストを夢見る現ロックミュージシャンにうってつけ。誤解を恐れずに言えば中途半端なハンサムっていうんでしょうか。例えばトム・クルーズやケイリー・グラント(古いけど)じゃあ、同じハンサムでも違和感があったはずで。
さらにというかとにかくというかだからこそというか、エマ・ストーンの美人か否か見解が分かれそうな境界線の美しさが、俳優を志望するもオーディションで落ちまくる役にぴったりというか他に思い当たらないというか。個人的には橋本環奈に近い微妙さを感じるんですが。
いや、その微妙さがこの映画では奏功していたのでは。俳優生命をかけた一人芝居を酷評されて傷つく姿があまりにリアルで。「ああ、俳優(女優)の卵にこういう人いそう」と心底思えたのは、エマ・ストーンがあの顔だったからではないかと。あれがシャロン・ストーンやカトリーヌ・ドヌーブ(古いけど)だったらああはいかなかったでしょう。
日本映画やドラマで「この役者じゃないだろう」と思うことは度々あり。田中美奈子にロック歌手を演じさせた「新宿鮫」や木村拓哉に製鉄会社の次期社長を演じさせた「華麗なる一族」、藤原竜也にヤクザを演じさせた「ムーンライト・ジェリーフィッシュ」など。本人の良し悪しではなく、配役に違和感があると、もう物語にのめり込めない。で、これが最近の日本映画には多い気が。
「ラ・ラ・ランド」では逆。あの顔のエマ・ストーンが主演だったからのめり込んだとすら言えるかも。
脚本も演出も、演技も音楽も、いやいや撮影や照明だって大切なのはもちろんですが、映画にとって配役がいかに重要か、「ラ・ラ・ランド」を見ながら考えたわけです。