祈りを解き放て!
ここのところ、色々思うことがある。
多分ある意味での1年の締めくくり、13の月の暦の年度末だからかもしれない。
特に人間関係に関して
家族にも、仕事関係で出会う人にも、クライアントの方々にも、心が動く事がでてきた。
普段、チャネルでいるときに、個の好みや感情があらわれることはない。 表向き表情は動いているが、心の中は常にニュートラルだ。(そうでないと情報源とも繋がれない)
たが、日常もちろん私は人間だ。好みも癖も想いも感情もある。それが私の個人の人生をつくっている。
人は色々な望みやゴールを想定して、セッションを受けに来る。
だが、その方々のハイヤーセルフやスピリットの意図は、その望みとは他のところにあることも多い。
日常に返って、人間的に、その方の幸せを祈るとき、その方が表向き望んだことが叶うよう祈るのではなく、天の意思を選びそれを幸せと感じられるようにと祈るのだ。
だが、次に会ったとき、霊的なことに意欲的である一方、人生には変化がなく、同じように天の意思と違うことを望み、叶わず嘆き、しかしある種の希望を持って、答えを求めに来るとき、思わずため息を付いてしまう。
やれやれ。一体これがいつまで続くんだろう。。
エゴの思うようにはならないんだけどな…とつぶやく。
いつもは、まるでお産の「いきみ」を逃すようにスルーするのに、それができない。
自分の感情体にその思いが入ると爆発的な感情の波に飲み込まれて身体が引き裂かれそうになる。
祈れば叶うことと叶わないことがあるとおもってしまう。
私の個の好みの期間内にその方が理想的な状態になっているというエゴが浮上する。
私は祈りを天に解き放っていなかったのだ!
またやってしまった。
自分の中で自分の力でそれを成そうとした、成せると思う錯覚
そう、エゴの思ったようにはならないし、できないのだ。
それは自らの中に解決できない痛みと苦しみを抱えることになる。
解き放て、天に解き放つのだ!!
深呼吸をする。
私は個で、ひとりの人間であったことを思い出す。
私の人生は私がつくっている。
他者の人生はその人の自由意志の選択だ。
私は人を変えることはできない。
私が変えられるのは、私自身だけだ。
解き放て!
そして天の意思に委ね、任せるのだ。
フォーカスをずらし、土いじりをしたり、日常をこなしていると少しずつ落ち着いて我に返ってくる。
「これは『私』の問題ではない」ということを再確認する。
私達は様々な極性のギャップを埋めるために日々奮闘している。穏やかで平和な人生を渇望するが、人によってこの両極の間をゆらゆら揺れることが楽しくてしかたがない。
そしてその感覚と過程を共有し共感することを求めてくる。
口とは裏腹に、変わることなんかサラサラ求めていなかったする。
現状を維持したまま、都合のいいところだけを変えたかったりする。
それはこちらの変化とは違うものだ。
真の望みの実現
天の意思、スピリットの想いはこの変化の先にある。
なぜなら、そこに真実の自分がいるからだ。
だからそこまでの変化は、本当の自分に至るまでのプロセスだ。ただ椅子に座って、他者の力を借りて願望実現はない。
行動がすべてを物語る。
そうだから私は今日ここに来ました。とあなたは言う。
それで、あなたはどうしたいですか。とこちらは聞く。
その答えを、次の瞬間から「あなた」が生き始められるかどうかが鍵なのだ。
具体的にどう動けば分からなかったら、わからないことがわかったので、心に問えばいい。
わかったら動く。小さなことから、動く。次の欲求につながる。そして車輪が回りだす。黄金比的に。螺旋を描いて
実現への道が広がっていく。
新しい螺旋はいつも内から外だ。
外から内へはない。外から内へ向かう螺旋は、何かが終わるときだ。
今正に、わたしたちが生きる時代はこの右巻きに内側に向かう螺旋の中にいる。今まで野放しに拡げてきた古い時代の全てを回収して、ばらばらになったものを一つに戻していく動きだ。
そして同時に、個々の中に、新しい左巻きの渦が芽吹き始めている。
私達と同じように、惑星も銀河も螺旋のリズムで呼吸をしている。
手放して、受け入れて。生きて、死んで、創って、解体して‥
また新しくなる。
さて、スッキリしたので、今日を始めるとしよう。