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「解釈」の解釈(1)(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた⑦)

約15年に渡って中高で英語を教えてきましたが、新しいことを学んでみたくて、科目等履修生として中等国語科教育法を履修しています。先日で前期の授業が終了し、最終課題レポートも仕上げました。レポートに取り組みながら、この約4か月の期間で学んだことを振り返ることにもなりました。

国語科教育について学び始めて、自分の中で一番大きな変化は「解釈」という言葉の理解だと思います。

なんで「解釈」をする必要が?

国語科教育法の履修前、私は国語の授業で文学作品を扱うことに極めて懐疑的でした。思うところはいろいろとありましたが、一番には作品の「解釈」というものがどうしても受け入れることができませんでした。

どうして「解釈」を考えなければならないのか。読み手によって人それぞれの解釈でいいのではないか。あるいは、「正しい」解釈というのがあるのであれば、それは筆者に尋ねれば済むことではないか。何より、どんな「解釈」も、なんだか後付けの根拠を並べているようで、いったい何をしようとしているのか、(国語科教育をかじる前の私にとっては)理解できませんでした。

今思えば、国語科教育を学ぶ前の自分は、「解釈」の意味を誤解していたのだと思います。

誤解:「解釈」=「象徴」

私の中ではずっと、作品の「解釈」というのは、その作品の裏のメッセージやテーマだったり、作品中の表現が何かを「象徴」していることを捉えることと理解していました。

大学生のとき、英文学講読のような授業で、とある戯曲を学びました。作品の「解釈」について何かしらの発表をしなければならなかったので、何も分からない私は、登場人物のもつ手提げ袋が破れて中身がまき散らされてしまい、新しい袋に中身を入れ直すシーンを取り上げ、この描写はこの登場人物が「新しい自分」に変化を遂げていくことの「象徴」だ、などと発表しました。

いま、この「解釈」が正しいだとかばかげているだとか、何か意味があるのかどうかというのは一旦脇に置いておいて、とにかく私にとって、文学作品の「解釈」というものは、おおよそこのようなイメージのことと理解していました。そして、文学作品の解釈だけでなく、「解釈」という言葉自体を、このような何か象徴めいた裏のテーマのようなものを(無理やり)見出す行為と同義で捉えていました。

「解釈」はコミュニケーションそのもの

国語科教育法の授業を履修しているうちに、「解釈」とは上記のような特殊な行為を指すのではなく、普段のコミュニケーションそのものであるという理解に至りました。

私たちは日常的に、他者とコミュニケーションを取るとき、相手の発言を「解釈」しています。例えば、相手が言った「すみません」は、謝罪なのか、感謝なのか、拒絶なのか。「ありがとう」は心からの感謝なのか、それとも皮肉なのか。

そう、これはまさに語用論(pragmatics)そのもの。「解釈」というのは、言葉の意味を状況や背景などに照らし合わせて考えることなのです。

国語科の学習指導要領では、「語句の辞書的な意味と文脈上の意味との関係に注意」することや、「文章の意味は、文脈の中で形成されることを理解すること」といった記述があります。国語の授業で作品や表現の「解釈」を行うのは、文脈に即した言葉の意味を正確に捉えようとする態度を育むためのようです。

言葉の意味は、文脈の中で形成される。

このことを学ぶことができたのは、自分にとってこの半期に渡って国語科教育を学んできた一番の収穫と言えます。本業である英語教育においても、このことを明確に念頭に置いておくことで、大切なことに気付けるような気がしています。

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