英語教育における「ことば」の扱い方③
これまでの投稿で、国語教育と英語教育を比較することによって、英語教育における「ことば」の扱いについて考えを自分なりに深めてきました。今回も引き続きこのテーマで考えてみます。
英語教育はどう見えているか
国語教育では、一つ一つの言葉に意味を込めて、自らの意図を丁寧に、的確に紡いでいく力を育んでいるようです。一方、英語教育では、自らの意図にできるだけ近い言葉を選んで表現します。場合によっては、本来の言いたいことを十分に反映できていなくとも、必要十分に「伝わる」表現で済ませるといった態度も積極的に推奨していくことになります。
こうした英語教育におけることばに対する態度は、国語教育の視点から見たらずいぶんと表面的で、ことばの奥深さを十分に教えられていないように映るのかもしれません。
私は英語教育側の人間なので、英語教育が薄っぺらいものであるとは考えていません。しかし、今回の投稿のように少し考えてみただけでも、英語教育を表層的だと指摘する人の考えは、多少なりとも想像することができました。
そもそも英語教育と国語教育では目的が異なるので、ことばの扱い方が違って当然です。国語教育がことばを豊かに使うことで人生を豊かにすることを目指しているとするならば、外国語教育は追加言語を使えるようになることで人生を豊かにすることを目指します。目的が違うので、その中でことばをどう扱うかが違っていて当然です。ただ、我々はもっと、その違いに自覚的であることが必要なのではないでしょうか。
英語教育はことばをどう扱うべきか
では、そうした違いを自覚したうえで、英語教育はことばをどのように扱ったらいいのでしょうか。
このテーマでの初めの投稿に書いたように、私はこのことについて明確な答えを持ち合わせていません。国語教育については全くの素人ですし、「ことば」の扱い方についてこれまで深く考えたこともありません。ここで書いているのはあくまで試験的な考察であり、これを読んでくださった方がそれぞれの考えを持っていただけることが私の願いです。
外国語であることを自覚して行間を読む
まず初めに、特にインプットに関しては、外国語教育におけるauthenticityの限界を自覚すべきと考えます。学習者や非母語話者向けに書き換えられた文章では、どうしても説明不足であったり、言葉足らずであったりする部分が出てきてしまいます。
こうした文章を扱う際は、このことを念頭に置いておき、ほんの少しでいいから「教材の先にある何か」を考える機会を設けることができれば、何かが変わるのではないでしょうか。例えば、本文の「行間」を読む必要性に触れ、どんな一文があればもっと分かりやすい説明になるかを考えたりするなど、何かできることがあるのではないでしょうか。
「伝わる英語で済ます」をどう考えるか
アウトプットについては、どうしたらことばを「大切に」扱うことができるでしょうか。自らの意図を伝えるのには十分ではないかもしれない「伝わる英語で済ます」ことは、ことばを「大切に」扱っていることにならないのでしょうか。
ひとつの考え方として、相手(話し相手、聞き手、読み手)のことを考えた結果の「伝わる英語」であるならば、それは十分にことばを大切に扱っていることになるのではないでしょうか。母語話者どうしのやり取りであれば、自分の意図に最も近い表現を吟味することがことばを大切に紡いでいることになります。しかし、非母語話者として言葉を扱う際には、自分と相手の言語力を考えたうえで、最適解となる表現を探すことが、ことばを大切に扱うということになるのではないでしょうか。
Accuracy & Fluency & ???
英語教育では、アウトプットにおけるaccuracy(正確さ)とfluency(流暢さ・運用力)のバランスが永遠のテーマとなります。
日本では、正確さばかりを求めるがあまり文法学習でガチガチになってしまった英語教育への批判・疑問が高まり、より運用力を強く意識した「4技能」系の英語教育への転換が図られました。しかし今度は正確さがないがしろにされてしまったとして、近年は再び正確さを重視する教育に揺れ戻しが起こっているように見えます。
このような accuracy vs fluency の議論は英語教育(外国語・第2言語習得)における大きなテーマの一つです。
今回「ことばの扱い方」を考えるにあたり、この accuracy vs fluency の2項対立では不十分ではないか、ということを考えるに至りました。正確さ、流暢さに加えて、第3の軸として、自分の意図をどれだけ忠実に伝えられているかを考えることも必要ではないでしょうか。適切な表現が思いつきませんが、accuracyに対してこちらは"exactness"とでも呼ぶべきでしょうか。
例えば高校生が作文で、100語程度のエッセイをすらっと書き上げたとします(fluency)。文法語法のミスも少なく書き上げたとしましょう(accuracy)。しかし、実はこのエッセイの内容は、本人が本当に思っていることではなく、自分の英語でミス無く書けそうな論点だけを取り上げて書いたものだとしたら、このエッセイは本当に「高評価」に値するのでしょうか。
こうしたことは、入試や検定試験などのwritingやspeakingでよく起こります。よくあるagree/disagree系のお題に対して、(自分の本心には蓋をして)書きやすい方向で書く。こうした指導が実際になされています。
どれだけfluentかつaccurateに自己表現したとしても、その内容が本心にexactでないとしたら、そんなことばの扱い方でいいのでしょうか。ことばの扱い方を丁寧に考えたとき、accuracyとfluencyに加えて、このexactnessと呼ぶべきようなものも考慮に入れてみてもいいのではないでしょうか。
まとめ
国語教育との比較の中で見えてきたこととして、今回は大きく分けて3つのことについて書きました。
Authenticityの限界を自覚し、「教材の先にある何か」を積極的に求めていくべき。
自分と相手の言語力を考慮し、最適解となる表現を考えることが「ことばを大切に扱う」ことになる。
Accuracy vs fluencyのような2項対立に加え、exactness(どれだけ自らの意図を忠実に伝えられているか)の観点を持つ。
こうしたことは、少なくとも私の中では、これまで明確に考えたことはありませんでした。今回国語教育との絡みで考えたときに、初めて見えてきたことです。
このように他教科の考え方や実践に触れることで新たな気付きや思考に至ることは多いと思います。私としては、まず英語教育と最も近い(はずの)国語教育に触れることで、様々なヒントが得られる可能性を感じています。
今後もこうした気付きや発見があれば共有させていただきます。
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