「国語の功罪」(ヨンギノー英語教師が国語教育を学んでみた②)

中高英語教員のKirtzです。約15年目の現職英語教師が、今年度、科目等履修生として中等国語科教育法を受講しています。

先日2回目の授業がありました。今回の問いは「国語科教育の功罪」

前回同様、先生からの短時間の講義の後、授業時間の大半は学生たち自身が調べたり思考したりしつつ、学生たち同士でディスカッションをしながら自分たちなりの答えを持つという授業進行。

問いの立て方と講義の情報量が絶妙で、さりげなく誘導しつつも学生たちが主体的に思考して答えを紡ぎ出し、議論・共有できる設定になっていて、毎度とても勉強になります。

国語の「功」

さて今回の課題は、歴史的背景を踏まえて、国語科教育の功罪を理解する。

私の周りのディスカッションでは、「功」としては、

  • 識字率の向上。

  • 全国で同じ言葉が使われることにより、教育内容や教育水準が統一できるようになった。

  • 富国強兵。

  • 日本文学の発展につながり、豊かな文化に。

  • 言葉を統一することによりアイデンティティを統一し、国民に一体感をもたらした。

といったことが挙げられました。

国語科の「罪」

一方、「罪」としては

  • 標準語を定めて教育したことで、方言などが「非標準」とされ社会悪と見なされる時代があった。

  • それにより地方の権力が失われ、東京への中央集権につながった。

  • マイノリティの言語や文化、アイデンティティが失われた。

といったことが挙げられました。

上記はまさに「言語帝国主義(linguistic imperialism)」として英語への批判でよく話題になることと同じです。それが日本国内でも起きていたというのは、これまで考えたこともありませんでした。

また、英語教師の私ならではかもしれませんが、

  • 国語の発展により、あらゆることが母語で事足りるため、外国語の需要が低く、外国語教育があまり発展しなかった。それによって現在では国際競争力が損なわれているという批判もある。

といった考えも共有できました。

Open-endedなディスカッションが楽しい!

それにしても、open-endedな問いについてディスカッションするのがこんなにも楽しいものとは。毎度、学びが楽しくてしかたないです。

特に、他の学生の考えを聞くのが楽しい。ましてや周りは二十歳そこらの学部生ですから、「この歳でそんなことまで考えているのか」と非常に感化されます。

一人の学生は国語科の「罪」として、「規範文法」が定められたことにより、「規範」から逸脱した言葉を「悪」と捉えるようになってしまった、と発言しました。規範文法という単語が学部2年生と思われる学生の口から出てきたのに非常に感化されましたし、おかげで自分の考えも深まりました。

また別の学生は、「読み書き中心の国語科教育により、聞く話すの力、つまりコミュ力の育成があまりされなくなってしまった」と言っていました。ちょうど前回の投稿で技能・領域のことを考えていたので、国語科教育専攻の学部生がそうしたことに課題意識を見いだしているとは驚きであり、たいへん嬉しい発見でした。

自分のしていることの「功罪」を自覚する

授業の課題設定や他学生とのディスカッションを通して、これまで考えたことも無かったことについて思考が深まっていく体験が、とにかく楽しいと感じます。

さて、今回、国語科教育の功罪について議論を深めました。こうしたトピックを教員養成のまさに入り口である「国語科教育法Ⅰ」で扱うことが大変意義深いと感じますし、こういう「国語科の入り口、当たり前」に触れたくて科目履修を決意した自分にとっては、足を踏み入れてみて本当に良かったと思います。

国語教師を目指す学生たちに、国語科教育の「功」だけでなく「罪」をきちんと意識させる。たいへん重要なことと思います。自分が良かれと思ってやっていることの負の側面を自覚するというのは、とても難しいことです。

さて、当然ながら今回の課題を考えながら、私は「英語教育の功罪」にも思いを巡らせることになりました(英語科教育法で学んだのでしょうか。全く記憶がありません汗)。自分のしていることの「功」「罪」を理解する。英語の功罪についてはまたの機会に深めて考えてみたいと思います。

いいなと思ったら応援しよう!