隣の芝生は何色か(ヨンギノー英語教師が国語教育を学ぶ理由③)

中高英語教師のKirtzと申します。4月から約15年ぶりに学生になり、科目等履修生として中等国語科教育法を学ばせていただきます。

隣の芝生は何色か

隣の芝生は青く見えると言います。他人の物がよく見えることを表すことわざだと理解していますが、それと同時に、実際にその場に立ってみると、端から見ただけではわからないことが目につくという意味も内包していると思います。

私は家の庭に芝生を植えているので、町中でよそのお家の芝生があるとつい観察してしまいます。塀の外から見る芝生は、どれも青々と美しく見えます。

自分の家の芝生も、少し離れたところから見る分には、青々と茂っているように見えますが、実際に庭に立ってみると、芝がはげているところだったり、雑草が生えているのが目につきます。

このように、「隣の芝生は青く見える」は、内部事情は内部に入ってみないと分からないということも含意しているのでしょう。

国語科の「常識」を知りたい

さて、以前の投稿で、英語教師の私が国語科教育法を学ぶ動機について書かせていただきました。生徒が国語の授業で何をどう学んでいるかを知っておくことで、自らの英語授業に役立てたり、また生徒が国語・英語双方で学んだことをつなげてあげたり整理してあげたりしたいということを書きました。例えば、

  • 品詞や句の扱いについて

  • 音読について

  • 読み方、読解方略について

こうしたことが国語科ではどのように教えられているのかを知っておきたい、ということを書きました。

上記のような事柄はわざわざ大学の教科教育法で学ばなくとも、自分で書籍などから学ぶこともできるとは思います。あるいは、周りにいる同僚の国語科教員に聞いたり、授業を見学させていただいたりして学ぶこともできると思います。

しかし今回、そのような形で学ぶのではなく、大学の教科教育法の授業を履修することを決意しました。特定の人の教育観や授業実践ではなく、最大公約数的な考え方を知りたいと思ったからです。

そのためには、教員養成の入り口である、大学(学部)の教科教育法で学ぶのが一番だと考えました。優れた実践や最新の教育法ではなく、国語科におおける常識、空気感のようなものを肌で感じるためには、一旦入り口からその中に入ってみて、中から見てみるということが必要だと思います。

国語科の「ホントのところ」を知りたい

英語の教員として端から国語科を眺めていると、いろいろと疑問を持つことがあります。上に挙げたような品詞、音読、読解方略などもそうですが、もう一つここで例を挙げれば、スピーチの指導は国語ではどのように行われているでしょうか。

英語の授業ではスピーチの指導を行う際、声の出し方、話すスピード、目線(アイコンタクト)、姿勢などを丁寧に指導することが望ましいとされています。ここで「望ましいとされています」という表現をしたのは、全ての教室で全ての教師がそこに注力できているとは限りませんが、少なくとも英語教育界において、そうしたことを丁寧に指導すべきというコンセンサスはある、そういう文化がある、と言ってもいいでしょう。

さて、国語の授業においてはスピーチの指導はどのように行われているのでしょうか。

正直なところ、私自身の中高時代を振り返って、国語の授業でスピーチの指導をされた記憶はありません。

私に記憶にないだけで実際には指導が行われていたのか。
私の学校ではたまたまそういう指導がなされなかっただけなのか。
私の中高時代にはそういう指導が一般的でなかったが、今ではそのような指導が広く行われているのか。

もしも、仮にスピーチ指導が国語の授業では行われていないのだとしたら、どうしてなのでしょう。

本当はやりたいけれど、何らかの要因でなかなかできないのか。
そもそもやる必要が無い、それは(中高)国語科で扱うべき学習内容ではない、ということなのか。
やる必要が無いというよりむしろ、やるべきではない、という理由が何かしらあるのか。

もしも、実際にはスピーチの指導が行われているのだとしたら、私のような他教科の人間が知らないのはなぜでしょう。

スピーチ指導は行うときもあるが、頻度が少ないので他教科の人間の目に触れることが少ないのか。
指導しているがなかなか生徒に身につかないので、他教科の人間が指導による効果に気付くことができないのか。
国語の授業中には指導され、生徒も一定レベルのものを身につけるが、それが他教科やホームルームでの発表にはなかなか生かされない(転移しない)ということなのか。

「なんで○○をやらないの?」を聞くのは簡単ではない

繰り返しになりますが、こうした疑問は同僚の国語科の先生に直接聞くこともできます。ただ、そこから得られる答えはどうしてもその先生個人の意見が色濃いものになってしまうでしょう。それに、「どうして○○の指導をしないの?」ってのは、どんなに仲の良い同僚でも、正直ちょっと聞きづらい…。批判の意味は無く純粋に疑問としてぶつけているつもりでも、どうしても否定的な雰囲気は避けられないと思います。

そして、聞かれた方も何をどこまで答えるべきか迷うのではないでしょうか。

例えば英語教師である私が、同僚の他教科の先生から

「どうして英語科はスピーキングにもっと力を入れないの?小中高と英語をやって、ろくに道案内もできない、なんてよく言われているじゃない」

と聞かれたとしましょう。(そんな不躾な質問をいきなりしてくる同僚はいませんが笑)

ちょっと立ち話の雑談程度にこの問いにきちんと答えるのは難しいと思います。どこからどこまでを話せばいいのでしょうか。それに、私の答えは私自身の思想が強く反映されたものであって、英語教育界全体の最大公約数ではないはずです。質問者である同僚が、ほんの雑談程度に話してきたのならいいのですが、もしもこの同僚が、本気で英語教育の「ホントのところ」を知りたがっているとしたら、それに答えるのはなかなかに難しいことです。

隣の芝生に入ってみよう

そんなことを長いこと考えながら過ごしてきましたが、この度一歩踏み出して隣の芝生に入ってみることにしました。

隣の芝生に実際に入ってみて、何が見えるか。

そして、もう一つ期待しているのは、

隣の庭からうちの芝生はどう見えるのか。

国語科教育を学びながら、外から英語教育を見たら、何か足りないもの、英語教師が気付きにくいこと、そして、英語教育にしかないものなどが見えてくるのではないでしょうか。

そんなことを期待しながら、学んでこようと思っています。


いいなと思ったら応援しよう!