愛だと思っていたもの

共感と自己中 自己中と主体性
自由と好き勝手 自立と独立
 自信と優越感 悩むと迷う 好きと愛する 
主体性がなければ自由であることも出来ない。
主体性がなければ共感することもできない。
そしてこの主体性は、様々な「本当のこと」に大きく関わってくる事に気づいていった。そしてこの内容は一つ一つの言葉を自分の中で具体的な例を上げて検証してみなければ見えて来なかった。
そのくらい日常の中に溶け込んでいるのでサラサラと使い捨ててしまう。
厳密に正確に知りたい使いたいと思わなければ、それは見えてこないと思うし、興味がなければそれはそれでOK!
ある時自分の中の自己中を発見。
私には3人の子どもがいますが、その子達が他者から不当な扱いを受けたり何か危害を加えられたりし時 必死で子どもをかばおうとします。

でも立場が変わって子ども対自分(母親である自分)になると必死で自分をかばっていることに気づきました。(反抗的な子どもにです)いかにも母親面をして。
つまり対外的には母親として子どもを守るのですが一度自分対子どもとなると自分をかばう。近い順なのです。これって……。
そうこれこそが自己中なのだと。
私は自分の子どもを愛していると思っていましたが自信を持って愛していると言えなかった部分にも 薄々気づいていたような気もします。
やっぱり違っていたのです。この気づきは衝撃的なものでした。一気にドン底へ奈落の底へと落ちていきました。でも、認めざるを得ません。

では「愛」とは???またしても究極の難題です。
どうすればいいのだろう?分かってしまうと生きる道が閉ざされた思いです。行き止まり。死にたい気持ちです。本当に死を想いました。実は2度目です。
思えば小4以来 私は母に愛されていないのではないかお母さんは嘘ばかり言っていると反抗的で、ことあるごとに「私は愛されていると感じたことがない」と母を罵っていました。母は その度に「子どもを愛していない親がどこにいるの!」と怒っていたのをよく思い出していたのですが、その疑いが自分によって明らかにされた…。
そしてあんなに可愛いと思っていた弟に嫌われていたことと結びついていった。弟を愛していたわけではない。独り占めにしたい、それは愛ではなく独りよがり 究極の自己中だったのだということへと繋がって行ったのです。
私が愛していると錯覚していたものは相手を自分のものにしたいという縛り…独占欲でしかなかったのです。(言葉通り、独り占めしたい)
それは相手にとって窮屈なものです。 その窮屈さを母に訴えていたのでした。

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