時間の生成が投射する生活についてβ版

前書き
本稿では時間概念の考察を分析哲学と認知科学を援用して行い時間概念がどのように人の営みに影響しているか検討を行った。要旨は時間の成立には自己の成立が先立ち、自己は実存在による世界と自己の二重性〈自己の中の世界と世界の中の自己〉によって生成され、自己が経験することで参照される共同体内で獲得される属性を含んだ法則系との比較による差異によって時間が生じ、その法則系というものの構造に含まれる社会法則、物理法則、神話法則によって他者との時間秩序が共有される。

読むと哲学と認知科学の分岐とデザインとアートの分岐とかわかる。

導入
生活を送る中で流れていて、ふと感じたりする時間とは何か。私達は生活を送る中で「Youtubeを見てたら2時間経っていた」「いつの間に日が暮れて夕方になっていた」「2年前に比べて顔が老けたな」「10分後に家を出発しないといけない」このように変化に気づいた時、変化を生じさせる時に時間が存在すること感じることができる。変化とは何かと何かを比較したときの差分の変化が閾値を超えた時に感じられることで生じる。その比較対象は〈時間を顕在化させた事象の属性〉と〈その事象に関わる属性の法則系〉である。事象とは自己が感じたこと・経験したこと・認知したことであり、法則系とは自己が事象を顕在化した〈変化を感じた〉際に同時に顕在化される事象の構造を成立させる属性の集合であり共同体内で獲得され、物理法則、心理法則、社会法則、神的法則などがそれにあたる。「Youtubeを見ていて2時間経っていた」を例に取ると、共同体内での社会法則という属性がありYoutubeを見る行為を行ったことで経験されることでニュートラルな感情から怠惰な感情に変異したこの変化量が時間であり、社会則のなかでの、この怠惰を引き起こした変化量は他の勉強した時の疲労の変異、家族で晩ごはんを食べて過ごす時の変異に置き直すことができると考える。この変異の置き換えを構築しているものを法則系と定義し、社会法則などは個人の成長、暦の刷新などを例に更新が図られる。このことから感じること・経験すること・認知することが時間に先立つといえる。この感じることは何かという考察が時間論の本質の問題として挙げられる。感じるとは何かについて分析するのは認知科学・心理学の領域に属すると思われるが19世紀に心理学が哲学から分離した時代に遡及することで〈感じる〉という概念の生成を明らかにし、21世紀の時間概念にどのように影響を与えているかを定める。このことによって私達を取り巻く生活と時間とはどのような関係性にあるのかを考察が可能になると考える。

感じるとは何か
感じるとは認知や経験など複数の差異のある概念を包含している言葉であり、感じるを最小構成している意味を抽出するには認知と経験が分岐する源流になった19世紀の哲学を取り巻く状況を紹介することで〈感じる〉の構造の生成過程が見えてくる。
 19世紀までは自己、意識、存在といった問題は哲学の領域とされ神学から科学的な考察より概念の構造を言語によってあきらかにしようとする分析哲学が主流であった。カントは形而上の存在を否定し自己と世界の間の感じ方によって世界が構成される実在論の立場をとり、経験とは何かの基礎をまとめ上げた。そして経験とは超越的経験によって構成される自己に対する作用であると定義した。超越的経験とはいわば自分と共に存在しているが自己に向いていない作用が存在していることであり、いわばスナップショットのようなものである。この作用が自己が働くことでフォーカスが合い経験にいたる。つまりカントは自己に対する作用が経験であると提示した。このカントの経験の定義が現在において不十分な点は作用の存在条件に関するという問題である。
 この自己と作用の関係についてあらゆる議論がなされた。便宜的な住み分けではあるが超越経験の上位に形而上の存在を検討することで異なる時間概念を提示したドイツ観念論、ベルクソンなどの哲学者たちは作用、自己などの概念を条件の分析を行ったりなどがあった。心理学の立場ではブレンターノ、ヴントなどは作用は内省とい手法で観察ができるという立場をとり、彼らが始めた研究室では重さ閾値弁別実験など実証的な実験を行うことと、カント哲学と実証科学との整合性も議論され、自己に関して実証可能な実験に基づく自己のモデルが作り上げられた。彼らの研究は行動心理学、精神分析、ゲシュタルト心理学(アフォーダンスにつながる)、現象学などに多様な影響を及ぼし、カントの提示した〈感じる=超越的経験〉とは何かを考察する上で求められる材料と分析ツールが19世紀後半に示された。

存在論に基づく時間概念構造について
 
カントの超越的経験は自己と世界の関係性の間にある作用の存在を認めることであり、この超越的経験の可能条件は世界と自己が存在しその中に作用の存在があることの条件をあきらかにすることと言える。この問題に対して、世界と自己の存在の保障の条件を明らかに説明しようとしたのがフッサール、ハイデガーなどの現象学者である。彼らの研究は作用の存在を前提とした自己に対する作用の影響を考えたヴント以降の心理学者に対してその前提に対する研究である点に彼らの先行性があるといえる。心理学者は哲学者の構築した自己や経験の概念を前提に研究が行われ、外的要因による自己の変化を考察する行動心理学派と全体の統合的な効果に基づいて認知が行われるゲシュタルト心理学派と精神分析学派に別れ認知心理学が基礎付けられていった。このような心理学の分化は経験や自己に対する前提に対する立場の差であり、自己と世界の捉え方によって定義される。
 ハイデガーの定義する存在の条件とは認知、経験を行う存在者が存在していることの条件についてである。存在者は経験ができるものであり経験が行えることで存在者として存在している。存在者が経験ができることは自己と世界があることで生じる。その中で自己がどうして存在しているかの条件とは、無の存在、経験できないもの、否定的なものが存在することによって成立すると述べている。これは否定的なものとは言語で語れない構造をもっており、トラウマが例に取られている。トラウマはその発生原因を分析することで自己の分裂を引き起こすもの故にトラウマとはAであるということが言えない構造を持っている。このようなAはAであると言えないものの存在を実存在とよびこれとの対峙によってヘドロ状態から自己を生成していく。しかし、これはヘドロ状態が自己の源流にあるわけではなく太極拳の太極図のような世界と自己の間で脱構築され構成される。、自己の中に世界があり、世界の中に自己がある矛盾律には自己は時に世界の中にいたり、外に出たりする。この運動性に実存在があると考察されることで自己は存在し身体を獲得し経験が可能になる。
このことから実存在→存在者→経験・認知→時間という構造が示される。この否定的なものとの対峙によって世界と自己の二重性が獲得され経験が生成される。この経験の獲得は否定的なものからの離反を引き起こす。それは私達は生まれながらにして共同体に属することから常に経験する事象についての属性を含む物理法則、心理法則、社会法則、神的法則といった参照系をえることができるからだ。
 それが故にハイデガーは芸術の必要性を唱え、その属性を感じ取ることができないものつくることで存在者は否定的なものとの対峙を行う行為によって存在を再獲得する。これはすなわち参照系の中のあらたな属性を得る拡張への運動である。彫刻や絵画はそれが構築されたメディウムの則が経験し得ない否定的なものになり参照系の拡張を要求する。瞑想は神話法則に対する拡張を促すと言える。自分にはない参照系を要求する力が芸術の力である。それは得体のしれない作品と対峙している現在との関係性、どこに起源をもっているかを探る行為、作品の構造、ブルーノムナーリの陰と陽では媒体からの克己はフレームの外に出ようとする力が表象する実存在と形態のありかたを求めているといえよう。

時間の参照点と協調 

今までの議論を整理すると時間は人が経験した時におこる比較による変化量であり比較元は法則系に基づき法則系は共同体の中で獲得される。そして経験の保障は自己の存在が否定的なものに対峙することで生じる自己と世界の二重性によって脱構築的に形成され、自己が経験を構築されているという考察を行った。本節では経験・認知されることで同時に引き起こされる法則系の獲得について考察を行うことで変化量である時間について検討を行う。
 参照系は共同体で獲得され物理法則、心理法則、社会法則、神的法則など複数の法則系で構築されている。子供は生活するのに他人が必要であることから言語獲得を行い心理・社会法則を獲得する。反対に無人島で1人で生存するならば社会法則はなくなり物理法則のみ参照系になる、このような環境要因によって法則系は形成される。
法則系の一つである社会法則には複数の属性の集合が包含されており、属性とは一つの意味として構成されるものである。例えば同じ入学年の属性、同じ家族という属性、虎ノ門に勤務しているという属性、これらの属性によって就活が求める変化量、夕ごはんを食べることで生じる変化量、17時に仕事を終えること実現させるのに必要な変化量、すなわち行為によって構成される。これの変化量の精度が産業革命以後と以前では行為の変化量から動作の変化量に変わったことで産業革命によって他者と時間感覚を了解をせざるおえない環境が作った。これは社会法則系自体の変化であるといえる。

後記
存在の保障に否定的なものを置き過ぎる立場にたっているのが、修正課題ではあるものの存在条件と芸術の必要性について、デザインと芸術の立場の違いと思弁的実在論、ドゥルーズの折り込み構造〈一つの中に世界がある構造〉について言及していないのが課題になっている。ただ言語的転回とデザインリサーチの立場の差が大きいのと、もう少し固めの文章にしたい。

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