生きづらくてもいいんじゃない?
なぜ人は、僕は生きづらさを感じるのだろう。
友達が少なくて悩んでいること事?
他人の目を気にしすぎて自分を出せないこと?
主張が少ないため影が薄くて、評価されにくいなぁって思っていること?
理想と現実との距離を感じていること?
周りと比べて少数的な価値観を持っていること?
他人の目線?
それともこうやって考えすぎていること?
これらを感じている人が「生きづらい人」と言うのならば、おそらく自分はそのカテゴリーに含まれていてもおかしくはない。
なんか違うな
これじゃないんだよな
どこからかくる不完全燃焼感
精神的に疲れている時はこうやってモヤモヤを抱えるときがある。
でも比較的日常生活では「生きづらさ」を上手く打ち消していると思う。
まず一つに過去の体験からくる「幸せのハードル」の低さにあると思う。
僕は小さい頃から父の仕事の関係で海外に住んでいた。
現地の日本人学校で多くの人と出会い、そして別れてきた。
幼いながらも、毎回悲しんでいたらキリがない、と思っていたのだろう。
そして、どうせなら短い期間でも楽しく過ごしたらいいじゃん、と言った考え方になった。
やはりこのことは自分の中でも大きな体験でポジティブな考え方のルーツになっている。
また、小さい頃から色々な価値観があるということを肌で感じていたことも大きいと思う。
幼稚園はベトナムの現地の幼稚園に通っていた。
小学校に入った後も現地のインターナショナルスクールにサッカーを習いにも行っていた。
ベトナム、インドネシアに住んで、様々な国に旅行で連れて行ってもらって、色々な体験をさせてもらって、多様な文化と価値観に触れた。
様々なコミュニティーがあることを知り、そこにもたくさんの人がいることを知った。
小さい頃から、色々な国、人種、文化、価値観の人がいることをいつの間にか知ることができていたことは本当にいい経験をしていた。
僕の場合、親が色々な価値観に対して寛容で僕や兄弟のことを尊重してくれていることもとても大きい。
大学に行っていたのだが、本当にやりたいことが見つかったときに本気で説明したら最終的に応援してくれた。
他にも比較的好きなことが多いことも一つの理由だと思う。
趣味に没頭しているときは確実に生きづらさを忘れている。
野球やサッカー、F1を見て応援しているとき、お笑い、ラジオを楽しんでいるとき、何かのライブに行っているとき、読書をしているとき、映画、テレビを見ているとき、多くの趣味が僕の心のセーフティーネットとなっている。
没頭って大事だ。
没頭しているときは周りなんて関係ない。視線も価値観の違いも感じない。
そして時にはその生きづらさを感じることすらも肯定するべきだ、と言うのが僕の持論だ。
生きづらさに悩んでいてもいいし、それを忘れて何かに没頭していてもいい。
悩んで、没頭して、吐き出して、肯定して、、、
色々な価値観があることを知っているのだから、それでいいじゃない。